見出し画像

国籍や国境を越えたその先 ⑤祖国訪問

台湾で日本の新幹線技術を用いた「高鉄(台湾高速鉄道)」を走らせる吉田修一さんの小説『路(ルウ)』。
苦難の末、数年に及ぶプロジェクトが結実し、開通した「高鉄」に主人公たちが乗る終盤のシーン。ホームや車輛周辺の描写を読んでいると、台湾高速鉄道の車窓からはどんな風景が広がるのだろう、という期待感と同時に、やっぱり列車は良いなぁと旅情もかきたてられました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆
日本で華僑の三世として生まれた私が初めて中国を訪れたのは1985年。
高校二年の2学期を終え、冬休みが始まると同時に北京出張中の父と合流。当時の中国ではまだ珍しかったスキー交流が主目的で、北京から極寒のハルピンへ列車で移動した鉄道旅行。初めての中国であると共に、父と二人で中国を旅した最初で最後の貴重な親子旅だった。

まだ16歳のボクにとって初の祖国訪問。
当時はまだ関西国際空港が出来ておらず、伊丹空港から日本を出国。
自分のルーツとなる国に初めて降り立ち「祖国の地を踏む」ってどんな感覚なのだろうか。
その初体験の瞬間への期待感と高揚感、自分の中国語が通用するかどうかの不安、父は空港ロビーに来てくれているかの心配など、様々な気持ちが入り混じって到着した北京空港。
周りを見ながら、流れに沿って入国審査の列に並び、ブースでパスポートを見せると、入管職員は無遠慮な視線を投げかけてくる。他のブースからも職員を呼び寄せ、ボクの入国書類とパスポートをマジマジと見ながら強い口調で言った。
「你为什么在日本出身拿着中国护照?
(あなたは日本で生まれてなぜ中国パスポートを持っているのですか?)」
と翻訳すると丁寧な口調に変換することは可能だが、実際は、
「お前は日本で生まれたのになぜ中国パスポートを持ってる!」
といった感じの高圧的な態度だった。
「我父母都是中国人
(私の両親はどちらも中国人です)」
などと、尋ねられた質問にひとつひとつ答えたのだが、一人また一人と、結局五人の職員が集まり、容疑者を問い詰めるようにまくし立てられた挙句、ボクの中国語がネイティブでないことも怪しいと思われた原因のようで、服装や荷物、ポーチに入れていた財布、ウォークマンもいじり始める。その五人衆は入国管理の職員とは思えないほど国際法や国籍に関する国ごとの法制度などの知識が無く、滅茶苦茶なことを言い合っていた。

職員1が「日本で生まれたのに中国人ってどういうことだ。パスポートの発行地も日本と書いてあるぞ。中国パスポートは中国でしか作れないはずだ」と大声で言ったことがキッカケで、ちょっとした騒動になった。
「日本の中国大使館、領事館に申請して発行してもらった」とボクが言えば、そんなことが出来るのか、と半信半疑の表情を浮かべる。
職員2は「着ている洋服や持ちモノからして、どう見ても日本人だぞ」と言いながら、僕から取り上げたウォークマンのイヤホンを自分の耳に突っ込み、音楽を流せ!と命令する。
このときシンディ・ローパーの
”Girls just want to have fun”(当時の邦題はなぜか「ハイスクールはダンステリア」だった)を聴いていたが、曲が流れても職員はこんな音楽は聴いたことがない、というような表情で次の職員の耳にイヤホンを入れようとする。
(おいおい、ボクのイヤホンをそうやって勝手に耳に入れるなよ、汚いやんけ!)
と思いながらも勿論そんなことは言えず、尋問は続く。
職員3「両親とも日本で生まれたって言ったな。なのにその子供が中国人ってどういうことだ!」
(だから!両親とも日本で生まれたけど、彼らも台湾、中国の両親のもとに生まれ、日本は血統主義やから親(当時は父親)が日本人じゃないと日本で生まれても日本国籍ではないねん!って最初に言うたやん!ボクの中国語は伝えきれてなかったんか?!)
職員4「うん、こいつは絶対に怪しい。両親とも日本で生まれて子供が中国人っていう道理が通らない!」
職員5「うん、こいつは中国人ではなく外国人だ。血液検査をしよう!」
(おい!待ってくれ!血液検査をしても国籍は分からへんぞ!)
事前に父から聞かされていた通りだ。
当時は世界中でHIVが流行し始めていたころだったので、中国に入国する外国人に血液検査を強いることがあるが、その針が衛生的かどうかが怪しいから絶対に血液検査をされたらあかんぞ!と言われていたことが、今ボクの目の前で現実に起ころうとしている恐怖。
この時、僕は必死で「我是中国人。我爸爸在机场等着我(ボクは中国人だ。父が空港でボクを待っている)」を何度も繰り返し、最後はパスポートをポーイっとほり投げられるように返され、
「去(行け)!」とまるで罪を大目に見て許してやる、みたいな感じで言われ、荷物を取ってどうにか到着ロビーに出た、という非常に悪い第一印象の祖国訪問であった。

久しぶりに会った父に入国審査の一部始終を話すと、父は既に何度も似たようなことを経験済みだというような口ぶりで、
「そうなんや。中国はそういうとこなんや。初めてでビックリしたやろ」
と言ったあと、
「ホンマにワシらは何人なんやろな。日本におっても中国人ってバカにされて、中国に来たらお前は中国人と違うって言われて、つくづく嫌になるわ」と事前に手配してくれていた車に荷物を載せながら言った。
時代的にボクとは比較にならないくらい多くの、そして理不尽な差別を味わったであろう父が漏らした本音。
祖国の大地に立った時に抱くだろうと期待していた喜びや感動は、全く予想していなかった顛末(てんまつ)と共に消え去り、自分が中国人であることを強く確信したり、誇らしく思えたりするどころか「ホンマにボクらは何人なんやろ」の困惑が一層深まった16歳の冬だった。

・・・・・・・
という具合に「熱烈歓迎」とは真逆の中国初日でしたが、父の仕事関連のクリスマスパーティに出席した時は温かい歓迎ムードを味わえましたし、その後は動物園でパンダを見て、万里の長城や紫禁城など定番観光スポットの多くを訪れ、悠久の歴史を感じることができ、今では忘れられない中国の旅となっています。

広すぎて回り切れなかった紫禁城
クリスマスパーティーに出席した16歳当時のボク(右端)

旅のつづき、北京から瀋陽~長春~ハルピンへ汽車で旅した内容は次回書こうと思います。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?