学びとは何か 〜我々はなぜ学ぶのか〜

    結論から申し上げよう。学びとは何かという質問に対する私の答えは、「手段」である。何のための手段かというと、「夢を叶えるための」手段である。整理すると、「私にとっての学びとは夢を叶えるための手段である。」ということである。
 我々は人間であるから、生きている限り何らかの夢を持つ。ここでの「夢」とは壮大な志のようなもの(たとえば「世界平和を実現すること」など)に限らず、本能的な欲求のようなもの(たとえば食欲を満たすこと」など)も含む。夢を叶えるためには、まず、自分の夢が何であるかを理解しなければならない。例えば、人類の祖先が、さまざまな不快感(空腹、病気、怪我など)を区別できなければ、その不快感を除くために何をすればいいかわからず滅んでいただろう。人類が現在繁栄しているということは、個々の欲求を区別し、それらに対しどのようなアクションを起こせばよいかを試行錯誤を通して学んできだということだ。食欲を満たすために飯を食い、睡眠欲を満たすために眠り、性欲を満たすために性行為をする。また、承認欲求を満たすために自分を磨き、高い地位を得ようとする。このように、人間は夢を叶えるために何らかのアクションを起こす。ここで必要になるのが学びである。学びには、「目的を理解し、その達成のためにどのようなアクションを起こせばいいかを知るための学び」と、「特定のアクションを起こすために必要な実力や知識、技術を得るための学び」の二種類が存在する。しかし、現代の教育制度はこれらを見落としているように感じられる。
 先に述べたように、学びとは手段であり、すなわち、途中経過である。しかし、現代の教育制度は学びが先行してしまっている。やりたいことが決まっていない者に、義務と称して学びを押し付けている。例えるならば、陸上に興味もなく、詳しいルールや、優勝することで得られるメリットも知らない子供に対して、何の説明もなしに、やれ「運動靴を用意しろ」やれ「このようなフォームで走れ」と命令し、陸上競技大会当日になって「好きな種目に出て、いい記録を出してこい。各種目の具体的な説明はしてこなかったが、基礎は教えてやったからできるはずだ。あとはお前の好きにしろ。」と言っているようなものだ。これでは学ぶ意欲もわかないし、学習者たちは学んだものの中から自分の夢を選択するようになってしまう。結果として、夢の可能性を狭めてしまう。また、現代の教育制度は時代に即していない。AIやインターネットの普及により、暗記科目の需要や価値は低下しているし、集団授業や、教師によって質の異なる授業は、生徒の学びにとって最適ではなくなってきている。個々の進捗に合わせて授業進度を変えるのが効率的である。大手の予備校や学習塾、ネット授業の実績がこのことを証明している。それにもかかわらず、国家は慣れ親しんだ教育制度を改変することを渋っているように見える。生物学者ダーウィンが言うように、『強い者、頭の良いものが生き残るのではない。変化するものが生き残る』のである。人類がこれからも繁栄していくためには、環境問題や格差社会の現状についての理解を深め、それらに柔軟に対応し、解決するために学んでいく姿勢が必要であると、私は考える。
 以上のことから、私は、これからも学び続けたいと思う。生き残るための学び、生きる理由を後付けしてくれた夢を叶えるための学び、具体的には、法学や言語学、平和学、機械工学を通して私は成長し、有意義な人生を送る所存である。最後になるが、私は、ツイッターなどで知り合った様々な人間の遍歴や学びを垣間見ることができ、自分自身の学びの可能性を広げることができた。そういう意味では、人との出会いもまた学びと呼べるのかもしれない。

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