芸能人(人)がある日急にこの世からいなくなってしまった。

先日、とある俳優さんが亡くなってしまった。多分誰も予想が出来ていなかった出来事だった。私は熱烈なファンとも言えないし、直接お会いしたこともない。ドラマや映画などの映像作品で見かけるたびに綺麗な俳優さんだなと感じる程度で、今考えると若い頃の作品を見ていても悪い意味で気になった事は無かったなと気がついた。
 それぐらいの感覚でいる程度の人間だけれども、けれど、なんとなく未だにテレビのニュースを見ることが出来ない。他のニュースについて知りたくて調べることはあるけれど、ただひたすらにぼーっと眺めるにしてはなかなか受け止めることが出来ない。
 
 俳優さんの訃報を知った時(私の場合はTwitterだった)その日のうちには他の女優さんや俳優さん、今まで関わったことがあるであろう人たちが「お悔やみを申し上げます」という旨のツイートをしていた。
 表現をする世界の方たちは迅速に対応することが求められている部分があると思う。何かしらの想いや感情を出しておかなければ何かの拍子に記者さん等に直接聞かれてしまう。今はSNSがあって当たり前だから早く感じているだけなのかもしれない。けれど、人の死を受け止めたり、振り返ったりするのはもっと時間がかかっても良いと思う。それが1年後でも5年後でも、10年後でも良い。ちょっとずつそれぞれの中で亡くなった方について気持ちを消化して欲しい。無理に受け止めようとはしなくて良いと思う。でも、人としては何かしら聞かれた時用の答えをある程度用意しておかなければ、その言葉がナイフのように目の前に突き出されて動けなくなってしまうのかもしれない。

 亡くなった人の気持ちは永遠に分からない。分かることも出来ない。でも分かろうとはしなくて良い。想像するぐらいで良い。多分だけれど人によってその人が見せている表情は異なっていると思う。全ての顔を知っている人の方が少ない。例えそれが親友だとしても。
 私はありがたいことかもしれないが、まだ自分に近い人が亡くなったことはまだ無い。(生まれる前に亡くなっている場合は除く)でも、自分に近い人の近い人が亡くなった事はある。それを見ていた第三者からすると、あまり引っ張られないで欲しい。例えどんなに信じられなくても、信じたくなくても、もうその方はこの世にいないから。(言葉がキツかったらごめんなさい)受け止める必要は無いし、したくなければそれを表現する必要もないけれど引っ張られるのだけはやめて欲しいと思う。

ファンとはなんなんだろうか。表現をする人は自己満だけではやっていけない世界で生きている人なのだと思う。応援することは出来るけどそれは見せてくれる部分を見て、(この場合は俳優としての部分に惚れて)応援をしている。でもプライベートは分からないし(それで良いと思う)その人の親友になることは出来ない。今回の出来事で、どんなに応援をしてくれている人がいても、どんなに周りが思っていても届かないのだと感じた。でもだからこそ気づいてもらう、自覚してもらう場所が両方に必要なのだと思う。

ぐだぐだ書き過ぎてしまい結論としては疑問が残るが私が最後に思ったことは“自分の人生を生きながら、推しは推せるときに推せるだけ推そうね”だった。


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