見出し画像

コミュニケーション地獄を生き延びるためのマゾヒズム入門


見る前からゲンナリしてしまうこちらの動画だが、お約束しよう。見たらもっとゲンナリする。そして、ふと、問いたくなる。どうして、コミュニケーションとはかくも苦痛なのだろうか、と。

私の見たところ、この動画のゲンナリポイントは2つある。まず、「若者」サイドとして感じる、年長世代の振る舞いに対する不快感である。良かれと思って、人生訓を講釈する、武勇伝を語る、処世術を指南する、こうした年長世代の言葉の数々は、底冷えのひどい老朽家屋に布団を引いて横になった時のような、根源的な不安を掻き立てる何かがある。コメント欄に目を向ければ、戯画化された昭和世代のコミュニケーションスタイルが、散々な言葉で罵られていて、そちらもさながら地獄絵図である。

そしてもう一つ、「年長世代」の持つ自己存在に対する不安感を忘れてはいけない。何を考えているのかサッパリわからない「若者」に対して、それでも指導者として相対せねばならない「年長世代」の、己の振る舞いに対する葛藤がイヤと言うほど伝わってくる。もちろん、「老害」などと呼ばれたいわけがない。だが、自分の娘息子ほども年齢の違う個人に対する歩み寄り方が、全くわからない。向き合おうとすれば、隔たりが広がるばかりだ。

この10分に満たない動画の中には、コミュニケーションをめぐる現代社会の問題が鮮烈な形で凝縮されている。それは、私たちにとって、コミュニケーションが人と繋がり良い人生を送るための手段ではなく、生きるために支払う「コスト」になってしまったということだ。これは世代を問わず言えることで、「若者」は自己の人生を主体的に定義し選び取っていくことを、「年長世代」はそうした「若者」に適切に寄り添って健全に育んでいくことを、権利ではなく責務として求められている。これは、相当に大きな変化だと言わざるを得ない。

最近まで「若者」は、社会の期待通りに、就職し、結婚し、子をなし、家を買い、会社を勤め上げ、穏やかに老いていけばよかった(らしい)。何を思っているか、何をしたいか、どう生きていきたいか、などと喧しく「主体性」を求められることなど決してなかった。そして「年長世代」は、自分の生きた轍の上を、自分の方角を目掛けて歩んでくる「若者」を眺めておけばよかった(らしい)。信念も価値観も人生のレールも全く違う生き物の「主体性」を見つけ育むなどという無理難題を吹っ掛けられることは一度もなかったはずである。私たちはみな、これまで誰も成してこなかった問題を投げかけられ、そして等しくその解決手段としてのコミュニケーションに苦しんでいる。

しかし、コミュニケーションが税金のように人々に課される状況になっていると言ってみたところで、それそのものがなぜ苦しいのかを説明したことにはならない。冒頭の問いに答えるには、コミュニケーションそのものに内在する苦しみをときほぐす必要がある。コミュニケーションは、そもそもそれ自体苦しいものなのだろうか。そうだとして、それはなぜなのだろうか。

リモートワーク後に私の周りで顕著になったのが、「会議室に人が来ない」という現象である。オフィスにいても、会議に自分の持ち場から参加するという人が現れ始めたのだ。どの程度再現性のある現象なのかわからないが、私は、これを非常に興味深く観察している。会話をするときは同じ場所に居合わせるべきだという(物理的制約によって当然に存在していた)規範が、テクノロジーの浸透に伴って急速に消え去っているのを感じるからだ。

身体を同じ空間に存在させるというのは、それ自体が暴力的な行為だと言える。人前に現れるというのは、匂い、目線、仕草、音声といったあらゆる信号を、半強制的に他人の脳内に差し込む行為だからである。何を乱暴なことを言っているのか、と思うかもしれないが、たとえば、今あげた要素は全てハラスメントの媒介になりうるものだといえば、想像しやすいかもしれない。スメルハラスメント、セクシャルハラスメント、マイクロアグレッション、モラルハラスメント、etc、といった暴力行為は全て、生身の身体の発するなんらかの信号によって、他者の身体を半強制的に損害する行為だと言えるからだ。ことほどさように、人の身体が目の前に存在するという状況はそれ自体が大きなストレスを与えるものであり、なるべくなら避けたい事態であるのは間違いない。

逆に言えば、だからこそ親密な人間との身体的近接性が愛情の証明として機能するのだと言うこともできる。愛とは、存在の暴力性を許容することである。会議室やオフィスから身体が消えたのは、他者という暴力から私たちが逃れたいと切実に希求しているからに他ならない。端末の向こう側の身体はスイッチ一つで消滅させることができるが、会議室に居合わせる身体から逃れることは決してできないのだ。

身体の共存が暴力である理由は、それが本人の意志にかかわらず強制的に信号を送受信し、感情の揺らぎを引き起こすからである。そして、これはコミュニケーションの問題にそのまま繋がっている。言葉を交わすことは、他者と繋がる回路を持ち、他者によって感情が浸食されることを意味するからである。他者は言語を通じて、あるいは非言語的な信号を通じて、私たちの感情を犯していく。コミュニケーションは、繋がりへと自分を開き、繋がりは他者の侵食を招く。だから、コミュニケーションは、感情を他律されるという極めて大きな苦痛の契機となる。

しかし、忘れてはならないのは、繋がりがもたらすのは苦痛ばかりではないということだ。他者と不思議に共鳴する一瞬、全く新しい考えが会話から生まれる一瞬、相手の大切な部分に自分が届いたと感じる一瞬、これらは全てコミュニケーションによる繋がりがもたらす快楽である。私たちは身体や言語を通じた繋がりを以ってのみ、他者を根源な意味で認め、慈しみ、承認することができる。強制的であること、暴力的であること、他律的であること、それこそが、バーチャルで代替できない現実の価値なのだ。繋がりが苦しいものとして体験されるか、幸せなものとして体験されるかは関係の質に依存しているのであって、決してコミュニケーションそのものがすべからく人に苦痛をもたらすわけではない。

冒頭の話に戻る。あらゆる世代にコミュニケーションが義務として課される状況で、つながりの苦痛や暴力性ばかりが強く意識される機会が増えていると思う。言語的なコミュニケーションがバーチャル空間で完結する(ような錯覚を与える)ようになったことで、苦痛を避けようとする防衛規制は強く働いている。

しかし、リモート会議は残っても、リモート飲みが綺麗さっぱり消え去った理由は、身体を居合わせることがもたらす繋がり(=暴力、苦痛)こそが、友愛的な関係の維持に不可欠であるからに他ならない。リモート会議だって、今後は必要以上に行われなくなると思う。どのような関係であっても、現実的な身体の繋がりを拠り所として構築されるからであり、そのことをまもなく社会は思い出すはずだからだ。

コミュニケーションの最も重要な逆説、それは繋がりは苦痛であると同時に快楽であり、その体験の質は関係の質に依存しているということだ。だからこそ、コミュニケーション地獄を幸福にサバイブするコツは、現実に存在する他者との関係の質を上げることに他ならないと私は考える。現実に飛び出し、体を居合わせ、言葉を交わし、他者が自分にとって「他者」でなくなる瞬間を創り出す。それは私にとっては、結構、楽しいことだったりする。

あとは、もっと重要なこととして、他者に侵食されることを喜びと捉えてみること。常に自分の境界が揺らぎ、他者を侵食し、あるいは他者に侵入され、自分が不安定に乱されることを、受動的に楽しむこと。コミュニケーションは、本来こうしたマゾヒズムによる快楽を与えるものだ。

ただし、コミュニケーションに幸せなマゾヒズムが成立するためには、他者を己の思うがままに暴力的に侵害しようとしたり、あるいは自分の都合良い他者しか受け入れないような人々とは縁を切らなくてはいけない。本当のSMが、適切な場と設計の元で行われる、思いやりやメタ認知を必要とするケアワークなのと、それは結構似ているんじゃないかと思う。道端のお爺さんを思いっきりムチで引っ叩くのは単なる暴力だ。自分の思い通りにならない部下に恨み言を吐いて罵倒するのは単なる拒絶だ。コミュニケーションをめぐるハラスメントは、大概こういうことをする人が、自分の暴力性に無知であることに起因している。

何が言いたいかというと、みんな自分の内なるS性やM性を見つめないと、相手の気持ち良いことはしてあげられないってことだ。相手を自分の思い通りにしたいとか、相手に自分の都合の良いことを言って欲しいなんて独りよがりな欲望を満たすためにコミュニケーションをするわけではない。リスペクトと思いやりの中で、境界線を犯し犯され続けることを楽しむためにするのだ。超わかりやすく言おう、コミュニケーションの中で、他でもない「自分」が変わることを楽しめる感性がない人が1人でもいると、そこに幸せなコミュニケーションは成立しない。

うーん、なんとなく、伝わらない気がするなぁ。全体的に。わかったって人いたら、何らかの手段で連絡してください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?