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あなたの人生は「手段」ではない 〜巷のキャリア論を斬る〜

「汝の人格やほかのあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」

イマニュエル=カント『道徳形而上学の基礎づけ』より

死して200年余り経てなお、哲学史に燦然と輝き続けるイマニュエル=カント。彼の功績の中でもこの引用はとりわけ有名で、高等学校の倫理の教科書にも載っているほどである。カントは、僕たち人間が自分や他人を、何らかの目的を達成するための「手段」として取り扱うことに極めて批判的だった。どれだけ批判的だったかというと、カントはこれを「定言命法」、つまり、いつでもどこでも無条件に守られる必要がある人類普遍のルールであると主張したほどである。

何かを「手段」として扱うというのは、その対象を「ヒト」ではなく「道具」として扱うということに尽きる。ある目的に対して合理的な側面のみを取り出して、自分の良いように利用するという意味だ。僕が注目したいのは、この定言命法が他人のみならず自分にも適用されているという事実、つまりカントが人間は「自分自身」を「手段」として取り扱ってはいけないと言っていることである。

カントは人間が自律的な思考を持つ理性的主体であることを何よりも尊重すべき美徳だと信じ、その尊厳の侵害を禁止することを普遍的倫理の基盤に据えようとした。自分や相手を「道具」として扱うのは、その行為そのものが社会の基盤たる理性的主体の尊厳を踏み躙る行為だから、どんな条件においても容認されるべきではないのである。

カント。富士額である。


本題に入ろう。巷のキャリア論は、「学生のうちに〜〜はしておけ」とか、「若いうちに〜〜はしておけ」「30代までに〜〜はしておけ」といった警句で溢れかえっている。僕はこのような商売に対して一貫してしらけた目線を送ってきたが、それは僕が極めて純粋に、人生の「道具化」を促す言説を憎んでいるカント主義者であるからに他ならない。

僕たちは何か、他の大きな「目的」のための「手段」として生きているのではなく、それ自体が「目的」であるような人生を生きている。キャリアエリートや実業家の発する警句は、僕たちの人生が既に決まったステップの継ぎ接ぎであるかのような錯覚を与え、そこからのズレを根拠とした不安を植え付け、人々が自分の人生を「道具化」して切り売りしていくことを助長するものだ。そして往々にして、彼らは自分の商売を大きくするためにそうした言葉を吐いている。消費者の「道具化」された人生はマネタイズされ、大きな渦としての資本主義に組み込まれていくのだ。

僕は決して、キャリアエリートや実業家自体を憎んでいるわけではない。そもそも資本主義という制度は、人々の人生を「道具化」することで駆動する装置であり、彼らはその上で輪転するアプリケーションの一つに過ぎない。僕自身も、金融という、消費者が自分の人生を「道具化」することで生まれた金銭を搾取することで、富を為し潤っていく業界で飯を食っている。金融は、資本主義という装置の道具化という側面が最もグロテスクに顕現する産業である。

例えば、保険は未来に対する不確実性とそこから生じる根源的恐怖を縮減するという体裁で、消費者の「現在ここにある人生」を金銭に変換(=道具化)して搾取するものだし、クレジットカードは「今すぐ欲しい」という心理につけ込み、同じように「現在ここにある人生」の金銭化を助長するシステムだとも言える。消費資本主義において、人々が自分の人生の一部を「手段」化して切り売りすることは避けられない宿痾であり、金融はそのインフラを提供する産業に他ならない。

そのような罪深い人間であるからこそ、声を大にして言いたい。あなたは自分自身を手段として取り扱ってはいけない。何か崇高な「目的」のために、あなたの「人生」の一部を犠牲にすることを促すような言説に、一瞬たりとも惑わされるべきではない。あなたが今やりたいことや、なりたいものを犠牲にして達成すべき「目的」などこの世に存在しない。あなたが理性的主体として思考しているという事実を、他の誰にも踏み躙られてはいけない。

人生計画、キャリアプラン、トータルライフコーディネート、資産形成、結婚適齢期、大学偏差値、こんなものはみな時代の徒花であり、10年もすればそれらを吹聴していた人々は、あなたの視界から綺麗さっぱり消え失せている。そして、あなたが既に「道具化」された人生を持て余すだけの日々を送っていても、彼らは決してその責任を取ってはくれない。だからこそ、あなたにこうした言説を言い募る人がいても、決して取り合ってはいけない。消費資本主義の宿痾の中で、「道具化」の宿命を受け入れながらも、少しでも堂々と生きるための道を、僕たちは探していくべきだ。

下らないバカらしい そういう態度をもしとったら 負けたくはない

華原朋美 Hate Tell A Lie


では、この社会で少しでも堂々と生きるために、僕たちは一体どうすれば良いのか。これに対しては、僕はシンプルに自己の「内発的動機づけ」に従うべきだと考えている。内発的動機づけとは、文字通り自己の内なる欲求であり、湧き上がる衝動であり、ただそれをしたい、為したいという根源的な欲望である。これを養成するための方法を、僕は他者との関係の中に、自我そのものを投げ出すことに見出す。マルティン=ブーバーの言うところの、<我>-<汝>の関係を取り結ぶのだ


ブーバー。カントと考えが似ているようで、違うところもたくさんある。

ブーバーによれば、関係を取り結ぶ方法は2つある。1つは、人やモノを「対象」として把握し理解しようと試みる瞬間に成立する<我>-<それ>の関係である。自分の理解可能な枠組みに当てはめて人を対象とすると、その枠組みで把握できない部分は月の影のように見えなくなる。これはカントの「手段化」と近しい概念だと言える。これに対して、<我>-<汝>の関係とは、「対象化」を行わず相手をそのものとして受け止め、理解や把握を超えたものとして向き合い続けることを指す。その関係の中で絶えず<我>の姿は生成変化し続け、確立することはあり得ない。

僕たちの社会に横溢しているのは、果てのない「対象化」=「道具化」を通じた<我>-<それ>関係である。そこから生成されるのは、自分の「目的」のために相手を「手段」化しようとする態度である。対して、<我>-<汝>関係から生じるのは、常に生成変化する他者=汝に目をこらし続けながら、その関係のなかで絶えず変化し続ける自己=我と向き合う態度である。「内発的動機づけ」とは、こうした自己の絶えざる変革の中で湧き上がる、もっと自己を/他者を知りたいという、それ自体が「目的」である根源的欲求に支えられたものに他ならない

自己を、そして他者を知ろうとすることには、決して終わりがない。その試みの果てしなさを受け入れれば(≒「対象化」/「手段化」をやめれば)、人はもっと知りたい、わかりたいという欲求に取り憑かれる。そこには、「目的」も「手段」もない。ただ、その姿を追いかけたいという内発的な動機づけがあるだけだ。そうした関係を遍く取り結んでいくことが、あなたが自分自身の人生を、そして他者の人生を(可能な限り)手段化しないで生きていくための唯一の方法に他ならない。そして、その関係を維持し、己の欲求を粛々と満たすための探究に身を置きつづけるのだ。

抽象的な話で煙に巻いているように思われるかもしれないが、僕に取ってみればこれは極めて現実的な思考であり実践だ。「手段化」の地獄から逃れるためには、そもそも僕たちがこのように個人を「手段」に矮小化し利用する関係の中に閉ざされていると言うことに気づかねばならず、それは相手を「手段化」しない関係の取り結び方を学び実践することを通じてしか為し得ない。その先、どのようにあなたが自分の人生を生きるかということは、内発的動機づけに基づいてあなたが考えるべきだ。それこそが、自分自身を「目的」として取り扱うと言うことに他ならず、あなたが「堂々と生きる」道を探すという旅に他ならない

まとめよう。カントによれば、何人たりとも、その人生を、なんらかの「目的」を達成するための「手段」とするべきではない。しかし、消費資本主義社会においては、人生の一部を「手段」化しマネタイズするための手法が溢れかえっている。僕たちは、自分たちの尊厳を守るために、そこから少しでも逃れて、堂々と生きるための道を探すだ。そのためには、ブーバーの言うところの<我>-<汝>関係の中で、他者との関係の中に己を投げ出し、常に変化の中に自己を置き続けることが不可欠である。そこから先、あなたがどう生きるかと言うことは、この関係の中で湧き上がる内発的動機に従いながら、あなた自身が定めて生きていくべきだ。

そうした思索が万人に開かれているという人間理性への信頼が、僕がカントを愛している所以である。



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