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責任のリデザイン② 他責思考を乗り越えるアーキテクチャを探し当てよ


それは、「あなた」の問題である

前回、自責の要求が却って他責思考の蔓延を導く逆説的な現象を例にとって、組織の陥りやすいジレンマを検討した。他責思考はたしかによくないが、自責思考の強要は却って他責思考の蔓延をもたらすので、もっとよくない。そういうことを書いたつもりだ。

先日、ある集まりにご招待いただき、組織マネジメントに関してお話しする機会をいただいた。そこで僭越ながら、「他責思考の蔓延は自責思考の強要によって引き起こされる」という話をさせてもらった。登壇自体は好評をいただくことができたのだが、一つ忘れられないやりとりがあった。話を聞いてくれた方から驚くべき質問が返ってきたのだ。それは、「今のような話をうちの若い人たちに分かってもらうにはどうしたらいいんですかね?」というものだった。

私はいただいた時間の大半をかけて、自責思考を強要することの問題と、他責思考を排除するために各人が認知のフレームを変える必要について説いたつもりだった。期待していた反応は、少なくとも「誰かの責任感のなさを嘆く」ようなものではなく、「自分自身が責任をめぐる問題にどう関わっていくべきか」という内省的なものであった。しまったな、と思った。伝え方を間違えたのだ。もっと直裁に、「いまここで起きている問題に対して、あなたが無関係であると感じていること。それこそが他責思考の蔓延を示す末期症状である」と言うべきだったのかもしれない。

あなたは常に、「いまここで起きている問題に対して、あなたがどう関わっていくべきなのか」を問わねばならない。そのように受け止められない問題なのであれば、それはあなたにとって重要ではないということだから、軽々しく口出しすべきではないと言われても仕様がない。まずはこの前提をしっかりと記しておきたい。あなたは常に、自分自身がいまここにある問題を構成する一部であると考えねばならない。(”一因であると考えよ”とは、決して言っていない。)


リバタリアン・パターナリズムとは何か:キャス・サンスティーン

他責思考が蔓延する状態を作り出すのは、多くの場合、認知の歪みに基づくミクロな行動や言語の微細な積み重ねである。そういう問題を解決するには、組織を覆う認知の歪みを少しずつ矯正していくほかない。

認知の歪みにアプローチする方法は多く存在するが、私はリチャード・セイラーやキャス・サンスティーンの依拠するリバタリアン・パターナリズムを支持する立場を採る。リバタリアン・パターナリズムとは、集団において各個人が選択の自由を保ちつつ、より「望ましい」とされる行動や意思決定が採用されやすい構造=アーキテクチャを作り上げる事を目指す思想である。その思想の大部分は、心理学と経済学が融合した新たな知の領域である行動経済学に根拠を有する。

リバタリアン・パターナリズムの考え方は「ナッジ」という実践知として体系化されている。著名な例で言うと、例えば私的年金制度への加入をデフォルトで「あり」にする(もちろん「なし」に変更することもできる)オプトアウト方式に変更することで加入率を劇的に改善する、術後死亡率10%という記載を術後生存率90%に変更する事で承諾率を劇的に向上させる、などの事例が日本でも広く紹介されている。前者はデフォルトバイアス、後者は損失回避バイアスを利用した、選択アーキテクチャの変更によって、人々の「望ましい行動」を引き出した例である。


アーキテクチャという「透明」な規制:ローレンス・レッシグ

私がリバタリアン・パターナリズムを支持する理由を丁寧に説明するために、サンスティーン以前にアーキテクチャに注目した法哲学者であるローレンス・レッシグの議論を紹介する。

レッシグは、その主著『CODE』の中で、人間の行動を規制する4つのメカニズムとして、①法律、②規範、③市場、④アーキテクチャ(コード)を挙げた。このうち、④アーキテクチャ(コード)とは、そもそも特定の行動しか取れないという状態を作り出す事で人の行動を制限するものであり、レッシグはサイバースペースにおける規制メカニズムの大半はこのアーキテクチャ(コード)によるものになると予言した。サイバースペースにおいて誰かの振る舞いを変えたい場合、法や規範を変えるよりもコードを改変してその人のアクセスや行動を制限してしまえばよいと誰もが考えるようになるだろう。レッシグは時代の趨勢をそのように見立てた。


法律、規範、市場といった規制とアーキテクチャ(コード)の最も大きな違いは、前者が人間の意識や理性に働きかけることで行動を規制するのに対して、アーキテクチャ(コード)がそもそもある特定の行動が規制されている事に気がつく機会を奪ってしまうところにある。

空を飛べない事を不自由に感じないのは、人の体というアーキテクチャに空を飛ぶという機能がないからであって、「空を飛んではいけない」という法律を守らされているからではない。壁をすり抜けられない事を不自由に感じないのは、物理法則というアーキテクチャが壁を透過する事を許さないからであって、「壁をすり抜けるのは間違っている」という規範に支配されているからではない。それらはただ「できない」から「できない」のである。

RPGの二次元世界でアバターが正方形のフィールドを決して超えられないのと同じように、アーキテクチャは常に透明な障壁として、理性や意識の届かないところから私たちの行動を規制しているのだ。


他責思考を乗り越えるアーキテクチャを探し当てよ

私はリバタリアン・パターナリズムを、レッシグのアーキテクチャ論を発展させて政治哲学的な命題に昇華させたものだと考えている。ナッジとは、アーキテクチャという理性や意識の及ばない「透明」な規制を活用し、望ましくない行動をとってしまう認知バイアスを知らず知らずのうちに乗り越えている状態を目指すものだからだ。

いまここにある他責思考とは、人々がこの「望ましくない行動をとってしまう認知バイアス」に支配されている状態に他ならない。そもそも他責思考とは、自分に問題があると考える苦痛を回避するための「正当化バイアス」の一種である。問題があったら人のせいに、環境のせいにしたい。この欲求に理性の力で抗うことは、言うは易しだがとても難しい。一人一人の理性に訴えたところで、何が変わるのだろうと絶望してしまうだろう。

だからこそ私は、認知バイアスは、「理性や意識の及ばないアーキテクチャ」の力で乗り越えるべきだと考えている。組織を設計しより善い方へと導くことの成否は、気がついたら望ましい行動をとってしまう「アーキテクチャ」を設計できるかにかかっている。「できない」から「できない」を、「できる」から「できる」へ。そういう視点を授けてくれるのが、リバタリアン・パターナリズムの思想である。

このように書くと、その都合の良い「アークテクチャ」は一体誰が作ってくれるのだ、と思うかもしれない。だから最後に、冒頭で述べたことをもう一度繰り返す。「あなたは常に、自分自身がいまここにある問題を構成する一部であると考えねばならない。」自然に列ができるコンビニエンスストア、食べ残しが少ないレストラン、制限速度が守られる公道、汚れない公衆トイレ。それらは決してただ最初からそこにあったわけではない。誰かがその「アーキテクチャ」を探し求める一歩を踏み出し実践した結果なのである。あなたが、あなたの手の届く範囲から、変えていくのだ。

まとめよう。いまここにある他責思考とは、私たちの認知バイアスの機能の一つである。これを解決するために、人々の行動を「望ましい方向」へと導くアーキテクチャを作ろうとするのがリバタリアン・パターナリズムの考えである。アーキテクチャは理性や意識が及ばない「透明」な規制として人々の行動に干渉する構造であり、他責思考を排除できるか否かは、如何にして優れたアーキテクチャを作り上げることができるかにかかっている。

今回は、いまここで発生している他責思考に向き合うために持つべき態度やその前提となる考え方について紹介した。少し抽象的な議論になってしまったが、この内容を踏まえつつ、次回は他責思考を退治するために有効な施策やTipsを記載したいと思っている。

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