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フィクションにおける「親」との対話と自己修復 − 「君たちはどう生きるか」、そして「愛と呪い」 −


1. 「君たちはどう生きるか」を僕たちはどう見たのか

君たちはどう生きるかを見て、感想を書こうと思ってから随分経ってしまった。周りの人たちや世間の反応を見ると、「宮崎駿論」に興じるひとびとが、映画の細部に彼の人的なディティールを見出すことでオタク的な盛り上がりを見せる一方で、「ジブリ映画」の良き消費者であった大多数の日本人は、これまでのジブリ作品と一線を画した難解かつ抽象的なモチーフに鼻白んでしまっている、という構図が見て取れる。

ぼくの観察範囲では、10代くらいまでの子供や青少年は、まぁまぁ普通に楽しんでいたように見えたのだが、ある一定の年齢を超えると、スパッと没入感が失われていたような感じがしている。おそらく多くの大人たちは、あらゆるシーンで提示される「よくわからない不気味な描写」の一つ一つにメタファーや象徴を見出そうとして失敗することが連続し、話を追えなくなってしまったのではないかと推察する。

ぼくはそもそも、今回ジブリは明確に、ディティールにメッセージ性やら作成者の自己言及やら何かへの引用を読み込もうとするオタク的な消費を拒否している様に見えた。その見立ては、子供的な見方をした若い世代の方が、むしろ「普通に良かった」という感想を抱くという現実にも合致している様に思う。

そうなのだ。細部に気を取られず、真っ直ぐにアニメを眺めれば、非常に内容は単純だったのではないか。ぼくがまとめるのであれば、君たちはどう生きるかは、フィクションの世界で「親」と対話することで、現実世界を生きる自分の痛んだ精神を治癒するという、自己修復の物語である。

みんなもそのように見たのではないかと思ってXを漁っていたら、どうやらそんなこともなさそうなので、少し丁寧になぜこのような結論に至ったか言語化してみようと思う。


2. おさらい - 「君たちはどう生きるか」は何を描いていたか? - 

まずは、フィクションの世界で自己(あるいは自己をモチーフとしたキャラクター)と「親」を対面させ会話させるという構図が、君たちはどう生きるのかの中でどのように現れていたのかをおさらいする。

真人は母を火災で亡くしたあと、疎開した先で継母となった夏子を拒む。夏子は、庭の「塔」に向かったきり姿を消してしまい、真人はこれを追って「塔」の中に入る。「塔」の中はフィクションの世界でとにかく出鱈目な時空と秩序で回っており、真人はそこで火の魔法を操る若き日の母と再会する。フィクションの世界は大叔父と呼ばれる人物が司っているが崩壊が近く、ストーリーの展開とともに真人は彼の後継としてフィクションの世界の主人に選ばれたことが判明する。真人は、しかし、これを拒絶し、現実世界で夏子を新たな母として受け入れて生きていくことを選択する。

母と真人との対話は全編に渡って繰り広げられるのだが、ぼくが取り上げたいたいのは、崩壊するフィクションの世界から真人らが現実世界に戻ろうとする際の別れの会話である。母は、過去の時空から真人と同じフィクションの世界に迷い込んでいる。つまり、この母は実は本物の若き日の母であり、現実に返せば、真人を産んで火事で死んでしまうということだ。真人は逡巡する。しかし、母は「真人を産めるのであれば、自分は死んでも良い」と言って、真人が夏子と現実へ帰ることを促す。

すでに死んだ自分の母に、自分を産むことを肯定させ、そのことによって自分が担う犠牲(この場合は死)を肯定させ、自分を愛していることを確認する。そして、真人は「傷ついた」精神を自己治癒し、現実に帰る。これが抽象化したストーリーの全容だ。

ここで真人の「傷」とはいったい何なのかも確認しておく。真人は、学校の帰りに唐突に路傍の石を手に持って、自分の頭を切りつける。あのシーンは読解が難しいと感じた方もいるかもしれないが、ぼくはあれを、実母を失って自分だけが生き残っていることや、父親が戦争に加担しているということ、苦しい暮らしの中で自分だけが裕福に暮らしていること、すなわち「罪悪感」を自罰的に刻みつけているのだ、と読む。真人の表情は抑制的で感情を読み取ることは難しいが、それを物理的な傷という形で明示することで彼の傷を深く印象付ける効果があったと思う。

この罪悪感は、フィクションにおける「母」との再会によって回収され、母性による圧倒的な肯定を受けて「治癒」する。「産む」という行為は、無から有を生み出す唯一の営みである。これは真人の「生まれ直し」であり、母の「産み直し」である。真人は一度無にかえって、もう一度有に帰ってくる。要するに、君たちはどう生きるかは、対話が叶わない親という現実的な存在を、フィクションという舞台を利用することで呼び出し、自分を肯定させることで、罪悪感や傷、心の穴を埋めて現実に帰る≒生まれ直す、というストーリーなのである。


3. 「生まれ直し」と過去の物語化 - フィクショナルな親たち -

このように自己をモチーフとしたキャラクターにフィクションの世界で「親」と対話させるというモチーフは、じつは驚くほど広く使われている。ぼくは、この構図のポイントは、その対話が行われるのがあくまで「フィクション」の世界であるということだと考える。現実で対話するという構図ではなく、あくまで対話そのものが「フィクショナル」である以上、対話している親もまた「フィクショナル」な存在であり、そのコミュニケーションは簡単に言えば「虚言」の応酬である。

これは、親が自分の望んでいる通りに振る舞ってはくれず、欲しい言葉を与えてくれるわけでもない(なかった)ことを受け入れ、そのような機能不全的な自分の家族との関係を物語(フィクション)として相対化するために必要な仕立てなのだとぼくは思料する。

例えば、シン・エヴァンゲリオンを思い出されたい。クライマックスでは、碇親子が「マイナス宇宙」と呼ばれるフィクションの世界で極めて内省的な対話を繰り広げ、父が自分が一人の孤独な人間であったことを独白し、息子へ「謝罪」する。碇親子の対話はフィクションの世界で行われ、碇シンジはエヴァのない世界として再構築された現実に還るが、その世界に父は不在である。こうして、碇親子の物語は、虚構の世界での対話によって幕を閉じ、「過去」となって現実から離れていく。

歪んだ母子関係を描き耳目を集めた押見修造の「血の轍」も、クライマックスで君たちはどう生きるかと全く同じ構図が登場する。母親の誠子を看取る夜、誠一は若き日の誠子と精神世界で対話を重ねる。誠子は「自分はずっと誠一を愛していた」と伝え、同じことを誠一も伝える。これは、人生を母親への愛憎にがんじがらめにされてきた誠一が最も聞きたかった言葉であり、最も伝えたかった言葉であったことは容易に想像できるが、これもまた、誠一の精神世界≒「フィクション」の中で行われている対話であり、誠一が自己を治癒し母を過去化するための仕立てである。現実世界で機能不全であった親子関係は壊れたままで母は死んでいくが、その物語は対話によって「過去」となる。


フィクションにおける「対話」という仕立てが必要になる理由は、親子関係が実際には永続的にひとびとを縛り続けるものだからであり、一回の対話や冒険を通じて修復に向かうことが、わたしたちにとって文字通り「ありえない」ことだと感じられるためだろう。その「ありえなさ」を粉飾するために、親はフィクションの世界に呼び出される。そこで対峙する親は、マイナス宇宙で人外の存在となっていたり、精神世界で自分を虐待していた頃に若返っていたり、火の魔法を操る自分と同年代の女の子になっていたりと、現実世界とは異なる仕様の別人≒「フィクショナル」な存在になっている。

だから、「フィクショナル」な親との間に了解が結ばれたとしても、現実世界を生きていく肝心の自分の家族の機能不全や、心の穴は決して埋まっていない。しかし、修復しない親子関係自体に決着をつけ、「物語」としてアーカイブすることはできるようになる。これが、君たちはどう生きるかという物語において描かれる、真人の物語の本質だと思っている。


4. 「愛と呪い」 - 親はなぜ自分をまともに育ててくれなかったのか -

今まで述べたのは、そもそもフィクションとして描かれるキャラクターの機能不全を修復する仕立てとして、さらに「フィクション」という踏み台を経由する必要があるという話であった。君たちはどう生きるかも宮崎駿の私小説的な色彩があるとは言え、あくまで仕上がりはファンタジー映画であり、真人やその家族には宮崎駿のプロフィールが反映されている部分もあるが、大部分はアニメーション単体として鑑賞できる強度を持っている。その意味で、あの世界自体はフィクションとして閉じていると言える。

この見立てを一次元現実に引き上げ、自分の現実の親子関係の機能不全を修復する手段としてフィクションの舞台を用意し、その世界に引き出した親と対話する、という自伝的な作品、すなわち作者そのものがキャラクターに色濃く投影されており、作者(現実)というコンテクストなしには成り立っていない作品についても考えたい。

例えば、ふみふみこの「愛と呪い」という作品を考えよう。宗教2世として生を受けた筆者の半自伝作品として壮絶な筆致で描かれる本作は、親からの暴力、実父からの性虐待、学校でのいじめ、猟奇殺人事件への危険な共感、売春などの経験が赤裸々に綴られる。

「愛と呪い」において、父親や弟は終始「ぼんやり」とした輪郭で描かれる一方で、母親だけは輪郭を持つ存在として描かれる。母親も、主人公である愛子を殴り、父親に性虐待を受ける愛子を笑う。ある夜、ゴルフクラブを持って寝入った父を撲殺しようとした愛子は、母に見つかってしまう。愛子は「母を殺さなければいけない」と思うが、すんでのところで思いとどまる。

愛子の母は、非常に曖昧な存在として描かれる。加害と被害の中間にいるような、愛情と憎悪の中間に漂うような、一貫性のない存在として現れ、そのことがさらに愛子の精神を追い詰める。終盤に差し掛かるにつれ、健常な社会生活を送れない愛子は、なぜ、母が暴力から自分を救ってくれず、見て見ぬふりをしていたのかを問い詰める。母は、父がいなかったら子供を育てることができなかった、自分だって被害者だったのだと泣きながら怒鳴る。そのような、愛子を全く救わない親子のすれ違いは、延々と続いていく。

この作品のクライマックスは、やはりこの母との対話というシーンに置かれている。母は、ある日愛子に向けて、自分の人生を切々と懺悔する。自分が弱く自活できない存在であったために、父親と離別できずに愛子を救えなかったこと、しかし愛子を産んだことが自分の人生の全てであったこと、子供を育てることで必死だったこと、どれだけ夫を憎んでいるかということ、自分の人生を振り返って死にたいとばかり思っていること。そして、そのような人生の中で愛子が唯一の希望であったこと。母は、愛子が生まれてきてくれたことへの「感謝」を伝える。

お母さんな、あんた産んで、それだけで幸せやった。
いっぱい楽しい思いさせてくれてありがとう。

愛と呪い 第3巻

愛子はここで初めて、母を「理解」するに至る。母も弱い人間であり、それでも、自分を精一杯愛そうとしていたこと。しかし、愛子が傷つけられた過去は消えない。ひたすら「悲しい」という言葉が背景にベタ塗りされたコマの中で、愛子はこのように考える。

私はね
生まれてからもうずっと 今でも
生まれてこなければよかったとは思ってる
それはたぶん お母さんも同じなんやろうね

だからねお母さん 私はもう あなたを
ゴルフクラブでぶち殺そうとも 思い切り抱きしめてほしいとも
思ってないよ

愛と呪い 第3巻

ふみふみこはインタビューの中で、現在も家族との関係を巡る葛藤が続いていることを告白しつつ、フィクションとして自分の物語を昇華することの意味を端的にこう述べている

最初は「こんな育て方すると、こんな人間になるんだぞ思い知れ!」みたいな恨み節(笑)。でも、描きながらだんだんとそれが消化されて、あれ? 自分はこれまで、本当は何を求めてきたんだろうというような。
 ラストシーンに近いところで、愛子が母親に対して「もうあなたを殺したいとは思わないよ」と心の中で語りかけるんですけど、たとえば描き始めた頃のイメージのままなら、あそこは「まだ殺したいと思っているよ」になったかもしれません。

この発言から、「愛と呪い」はまさに、「フィクション」に呼び出した母との対話を通じて、自己の物語に決着をつけ、機能不全な家族関係から自己を修復する営みであると言えるだろう。「殺したい」という現在進行形の殺意を、「もういいんよ」という許しの対話にすり替えることで、母との物語はアーカイブされる。無論、現実世界における母との関係は終わることがないが、物語という形で自分の過去を清算することで、精神的な修復≒生まれ直しは確実に行われている。

ちなみに、愛子は「生まれ直し」たいという欲望に対して極めて自覚的である。それは、結婚した夫との関係が破綻に向かう際に、自分の日記に書き殴る言葉に現れる。

だから 
私の「まともな親」になって、私を産んで育てて欲しかった
それが叶わないと泣き叫んで暴れてた
そんなこと叶うはずないのに
おっぱいを欲しがる子どものまま

愛と呪い 第3巻

5. 結論 - フィクションを通じた自己修復 -

宮崎駿は、真人がフィクションの世界で母と再会し、生を肯定されるという仕掛けによって、過去の物語化による自己修復の機会を演出する。ふみふみこは、実際の母をフィクションの世界に呼び出し、そこで対話することで過去を物語化≒アーカイブして自己修復する。ぼくは、フィクションの力はここにあると考える。

何度も言うように、実際の親との関係は、というか全ての人間との関係は、不完全で不確定で不確実であり続ける。機能不全な関係によって傷つけられた自己は、現在進行形で壊れつづける。そのような自己破壊を止めるために、フィクションの中での対話が機能する瞬間がある。

無論、生身の人間との対話を通じて得られる治癒は、確かに存在する。腰を据えて、目を見つめて、お互いの胸を開くことができれば、関係を少しずつでも修復できるはずだ。しかし、過去自分が傷ついたことは、その経験の生々しさは、決して自分のうちからは消えない。だからこそ、ぼくたちはそれを「物語」として決着をつけ、アーカイブする。終わった話にするのだ。

真人は母との対話を通じ、自分が望まれて生まれたことを確信し、愛子は自分と同じ苦しみを母も味わっていたことを知って、初めて共感と許しに至る。それは、もう救うことのできない過去の自分を「修復」するために、フィクションの世界でもう一度過去をやり直す、つまり「生まれ直す」ということに他ならない。

君たちはどう生きるかは、人間が自分のトラウマを克服し現実を生きることができるのは、フィクションの世界を経由して自己修復を行うという回路があるからだ、ということを伝えるものだったというのが、ぼくの理解である。フィクションは現実足り得ないが、現実を変える力を持っている。人間は、そういう物語を作る強さを備えているのだ。

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