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「走る×何か」を求めて(前編)

佐々木 順(渋谷で走る会、東京90)


1. アドベント感謝です

 アドベントの記事を読んでくださり、ありがとうございます。同期周辺からは懐かしい!という返信を多数もらいました。若い方からも、複数からお会いしたいという奇特なお話をいただき、ニヤニヤしながら返信書いてたら降りる駅を乗り過ごすような有様です。

 せっかく開設したnoteなので、ネタが尽きるまでは続けようと思います。今後レースに出ればその顛末を書くこともできますが、しばらくは昔話にお付き合いくださいませ。なるべく、同世代よりちょっと下の人にも響く要素を選ぶつもりではいます。

 アドベントではオリエンが20年ぶりと書きましたが、実際にはスプリントシティロゲにスポットで出ていたので、活動が皆無というわけではありません。ただ今回はコンパスもウェアも新調したことで、今後は、続けられない事情が出ない限りは、ぼちぼち遊ぶつもりです。

 そう、続けられない事情が出ない限りは

2. 突然活動をやめました

 大学院の後半は一時的にオリエンから離れていましたが、99年の就職時、縁あって勤務先の地元クラブにお世話になりました。学生時代から書き物を多く引き受けていたので、クラブのホームページも広報物も大体は手がけました。それだけに、今のクオリティには驚くばかりです。

 結婚しても活動は継続していましたが、03年春、自クラブの大会開催を直前に控えた時期に、突然活動が難しい状態になりました。自分のPCのHDDを見る限り、大会本番と事後報告まではやり切ったようですが、終了後すぐに休会。翌04年に退会となりました。当時のメンバには、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

SMAP「世界にひとつだけの花」。03年のオリコン年間No.1シングル。
今でもこの曲を聴くと切なくなる。

 大会後、3年くらい仕事と家庭以外の活動時間は取れず、世間と隔絶された生活となります。子供と電車でお出かけできるようになった06年頃から、少しずつ活動の自由度が広がってきましたが、自分が運動するというところまでは頭は回りませんでした。

3. ブームに触発されました

 鬱屈した生活に風穴を開けてくれたのが、東京マラソンを始めとする市民マラソンブームでした。衝撃的だったのが、08年東京マラソンの猫ひろしです。のちに彼は国籍を変えて五輪に出場することになりますが、この時点ではまだ「足のちょっと速い芸人」でした。

 猫の初マラソンのタイムは3時間48分。これをTVで見たときの感想は「俺でもできるかもしれない」。そこから再び走り始めよう!と思うのですが、最初は2km先の公園まで走るだけでも一苦労。もっと走りたかったのに心が折れて、帰り道は歩いてきた気がします。

 徐々に慣れると、大会に出てみようと思い始めます。家庭のある身では年に数回、ハーフに出るのがせいぜい。でも会場は駅から徒歩圏が多いし、着替えて家を出ればさくっと行って、終わったらさくっと帰れる。とにかく楽です。オリエンに比べればある意味天国。

 最初の記録(08年多摩川ハーフ)は1時間45分くらい。上出来?と思ったけど、当時の記録を読み返すと、入りが4:20台(!)で、後半は止まってストレッチという、かなり乱高下な内容でした。。入りが速すぎというのは、程度の差こそあれ、今でも続いてます。

市民ランナー生活の初戦は川崎・等々力競技場でした

 ハーフも慣れて、いよいよフルだ!と決めて最初に挑んだのが12年のかすみがうらマラソン。30kmの壁に苦しみ終盤歩くものの、ネット3:55で完走。目標には届きませんでしたが、初マラソンがサブ4なら上出来。年に1-2回のフルを軸に、間をハーフなどでつなぐ生活が定着します。

4. バランスに悩みました

 初心者あるあるで、タイムは走るたびに伸びます。翌13年春のかすみがうらマラソンで念願の3.5hを達成。「これは45歳までにサブスリー?」状態に(当時42歳)。同年秋には大田原マラソンに挑みます。成績制限の無い大会としては最短の制限4時間、しかも後半上りの難コース。開催地は栃木県北部で、始発で出発、暗くなってから帰宅となります。

2013大田原マラソンでのPB達成時(右)。身体細いな。

 結果はネットで3:27(これが現在もPB)。最高の結果を得て帰ってきましたが・・・あまりに家庭を顧みない行動に、その後の家庭内環境が最悪の結果に。うちは他の家とは違う。苦悩が続きます。

 追い打ちをかけるように、ケアが不足していたのか、14年の春にぎっくり腰が出ました。走るどころか、歩くこともままなならない生活。走るたびに記録を塗り替える日々は、ここでぱったり止まりました。

 ここで、ひとつの悟りを得ます。
「全リソースをつぎ込めば、その人の心技体の限界までは伸びる。ただ、それが叶わない以上は、手前で折り合いをつける必要がある。」
 
プロはリソースを集中させる代わりに実績で周囲に夢を与え、学生は親や社会の投資を受けて、将来の自分のために全リソースをつぎ込む。
 でも、市民ランナーはそうじゃない。所詮はただの道楽。

5. 同じ境遇の輪を知りました

 かくして、非現実的な上昇志向に区切りを付けました。実のところ、参加数は大して減らなかったのですが、心に余裕はできたと思います。
 この頃、ネット上でひとつの団体を知ります。

 名前はRun4u。自閉症を中心とする知的障害をお持ちのお子さんのお父さんを中心に作られたグループです。活動は簡単で、お揃いのTシャツで走り、それをFacebookにアップするだけ。年に1-2回は集団で参加する大会を設けたり、時には親だけで飲み会をやったりします。

 さっそく主宰者に連絡。14年の湘南国際の会場で出会ってシャツを受け取り、すぐに着て走りました。この大会のタイムは3:52まで落ちましたが、あとは現状維持、と目標を切り替えました。

中央がRun4uの主宰者・南雲岳彦さん

 この年のクリスマスイブ(!)には都心で、親だけの飲み会が実現。エンジニアの私からすると遠い業界の方も多く、勉強になる日々でした。
 「走る×同じ背景を共有する」するものの語りが、そこにありました。

個人的には伝説の飲み会。クリスマスイブの新橋!

 なお、この会の活動はメディアにも注目され、NHKから取材を受けたこともあります。同局「ランスマ!」の「キラリ!市民ランナーファイル第2弾」として放送されました(18/6/30)。とある家庭に潜入取材、普段のトレと大会参加の様子を収録しました。カバーの写真もその時のものです。
 (動画探したけど、見つからないのが残念・・・。)

🎍🎍🎍

 まとめると「熱中していたものが続けられなくなり、徐々に復活したけど生活とのバランスに苦しみ、目的を見直して折り合いを付け、現在に至る」でしょうか。程度の大小こそあれ、既婚者あるあるだと思います。

 Run4uはネット前提の活動であることに加え、設立の背景から硬い会話も多くなりがちです。だからでしょうか、次にもっと遊んで走れる別のルートを見つけに行きます。それは後編でいたしましょう。

 23年の終盤、多くの強力な皆様と遊んでいただきました。これを足がかりに、24年も楽しいルートを切り開いてまいります。皆様におかれましても、よいお年をお迎えくださいませ。

後編に続きます

★おまけ★

CC7では出走前にRun4uシャツで会場うろついてました。目立つんですよね。
くのいちの会(91年入学)にお邪魔。左から緒方賢史(東京)、上坂昌生(北海道)両氏。

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