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第10話 悲しみにひたるという麻薬

脱毛症が始まってから数か月が経ちました。
最初は、一時的な症状だと思っていました。
症状は急激に進んでしまったけど、治りだせば急速に元通りになるだろう。そういう希望的な観測を持っていました。

でも、何か月たっても症状は改善しないどころか、じわじわと悪くなる一方です。
このまま治らないのではないか。
一生、この頭のままで過ごすことになるのかもしれない。
そういう恐怖感や諦めが脳裏をチラつきはじめました。

このような八方ふさがりの行き止まりに入ってしまったとき、どういう行動をとればいいのでしょうか。
当時の私も、悶々と体をくねらせながら、この底なし沼のような絶望から抜け出す方法を考えていました。

今から考えると少し不思議なことではあるのですが、当時、私が結果的にやっていたことは「悲しみにひたる」ということでした。

1人暮らしの小さな部屋でしたが、蛍光灯の白い光では雰囲気がでません。
電球色であたたかな光を出す、小さなスポットライトがありました。
珈琲缶を利用して作った自作のライトでした。
夜遅くになると、そのライトだけをつけて静かに考えにふけるのです。

音楽をかけることもありましたが、スローテンポで静かな曲ばかりを選んでいました。
からたち野道という歌があります。
「これ以上つらい日が来ませんようにと 飛び石踏んだ」という歌詞を口ずさみながら、今以上につらい日などないだろうと考えていました。
ピアノのクラシック曲も、悲しい雰囲気を盛り上げるには最適でした。
ショパンのノクターン(夜想曲)とかをかけながら、スポットライトにほのかに照らされた部屋の壁を見つめていると、涙が出そうになるほど体があたたかい感情に包まれるのです。

悲しみにつつまれると、体が熱くなり安らいだ気持ちになる
これは、自分が本当に不幸な状況になるまでは全く知らなかった、不思議な発見でした。
悲劇の映画の主人公になった気分で、悲しみにひたりきります。
自分は孤独であり、不幸のどん底にあり、やる場のない怒りを抱え続けて、絶望の淵にいる。そういう状況を手を変え品を変え、言葉を変え、例えを変え、環境を変え、音楽を変え、いろいろな手段で自分をどんどん追い込みながら、どんどん悲しみの感情を高めていく。
そういう自傷行為のようなことをしていました。

涙は出ませんでした。泣くことはとても苦手でした。
どれだけ悲しみや怒りの感情が湧き上がっても、最後の一線を越えて涙が出るところまでは至らないのです。それまで、男の子は泣いてはいけないという価値観で過ごしてきたので、涙を出すという筋肉(というか涙腺)が機能していなかったのでしょう。
おじさんになった今は、感動的な映画を見るだけですぐに涙が出るようになりました。でも、当時は泣くことには全く慣れていませんでした。もっと涙を出すことができれば、より悲しみにひたることができただろうと思います。

悲しい状況のときに悲しみを増幅させるということは、良いことではないのかもしれません。
うつ病の一歩手前というか、うつ病そのものになっていたのかもしれません。
でも、やり場のない感情を持て余し、眠れない夜をどう過ごせばよいかが分からないときに、私は悲しみにひたるという手段を取ってしまいました。

本当は、お笑い番組などを見て、明るい気分になったほうが良かったのかもしれません。
実際、そういうことを勧めてくれた人もいました。
吉本新喜劇に行ってみたら、何もかも笑い飛ばせるようになるよとか。
でも、フットワークが重くなっていた当時は、吉本新喜劇を見に行ってみるという簡単なことですら、なぜか心理的なハードルが高く、後延ばしになって行かずじまいになってしまうのでした。

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