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信頼関係という砂上の楼閣

ずっと不思議に思っている言葉がある。
信頼“関係を築く”という表現だ。

信頼関係という文脈でよく出てくるのが、恋人・親友という言葉たち。

曰く、「最初はぶつかることもあったけれど、長い年月をかけて話し合う中で徐々に信頼関係が生まれていった」と。

こと男女の恋愛の文脈では浮気云々の話題でも出てくることがあり、「会えないときはまめに連絡する」、「不満や想いは言葉にして都度都度伝える」といったお互いが信じ合えるような努力が大切とのことだ。

でも僕は思う。
“信頼”というのは関係性ではなく、個々人に宿るものではないだろうか。

少なくとも僕の恋人や親友たちは、別に恋人や親友と呼ばれる関係になる前から、世間が言う信頼感を感じる人たちだった。

それに彼・彼女たちへの信頼感は「今まで一緒に○○してきたから」というのが根拠になっているわけではなく、「あの人は○○な人だから」という感覚から来ているものである。

ビジネスの世界なら、信頼“関係を築く”という概念も理解できる。
なぜなら、基本的に等価交換が原則だから。

toBであれtoCであれ、基本はサービス・商品と時間・お金を等価交換することでビジネスは回る。

そのため、この等価交換のルールを犯さないかどうかが最重要であり、逆に言うとそれさえ守ってくれれば、対峙している相手の私生活等はあまり問題ではないのだ。

したがって、ビジネスの世界で求められるのは、お互いが等価交換の原則を破らないことを保証し合うための狭義の信頼関係であり、であれば構築した“それ”が意味をなすことも分かる。

でもプライベートの世界はどうだろうか。

ビジネスの世界と違い、プライベートの人間関係は簡単な等価交換では説明できないという感覚はきっと誰しも持っているだろう。

そんな中、初期の段階で人としての信頼性を感じられなかった人と信頼“関係を築く”ことは出来るのだろうか。

付き合っていくうちに、自分が相手に対して抱いていた感情がすべて勘違いで、蓋を開けてみると信頼できる人だったと判明→ゆえにこの人は信頼できる、というパターンなら理解できる。

その場合、相手は元々信頼に足る人物であったにも関わらず、あらぬ誤解があり、それが分からなかっただけなのだから。

しかし、お互いが歩み寄って的な感じで本当に信頼関係は生まれるのだろうか。(歩み寄るという行為そのものには非常に価値がある)

それはあくまでその人とあなたの間限定の信頼感が高まっているだけであり、個々人の信頼性が上がっているわけではない。

私にとっては、誰かとの関係性によって変わり得る信頼関係という概念は砂上の楼閣だ。

誰を信頼できますか?と聞かれたときに、いつも一緒に馬鹿笑いしながらお酒を酌み交わすAくんよりも、誰もいない横断歩道の赤信号を待ち、1人の時でもいただきますを言い、相手が誰であっても遅刻しない名もなきBさんの方が私は信頼できる。

有事の際にどちらと一緒にいたいかと言われれば話は別だが、あくまで信頼できるかという観点ではそう思うのだ。
(なお、信頼できるかどうかと良い悪いは必ずしも結びつかないと思う)

だから僕は、信頼関係の構築ではなく、初めましての人にも不思議と信頼してもらえる人間構築を目指して、1人の時間を大事に、そして丁寧に生きようと思う。

水無月 双

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