見出し画像

《さらざんまい考察④》「ここではないどこか」、忘却と後悔 歴史の蒸発《ネタバレあり》

・「ここではないどこか」

 最終話、一稀・悠・燕太はそれぞれ輪から外れ忘却の海に落ちながら「ここではないどこか」を願っていたことを独白する。

 「ここではないどこか」という概念はどの時代にもあった。それが大航海時代を生み出したかもしれないし、あらゆる冒険心や発展をうみだしてきただろう。
 それは車や鉄道、飛行機で世界が広がったため、心にあった欲求が行動に移すことを若者がおおく始めたからだろう。文化による概念の発見である。
 そしてそれが大衆に向けて可視化されたのが、1960年代アメリカ・ハリウッド、アメリカン・シューシネマの時代の到来だ。『卒業』(1967年)やJ・ディーン出演作に代表される、若者の怒りややるせなさがそれまでの美男美女の心地いい夢物語としてのハリウッド映画を終わらせ、そして新しい時代をはじめたのだ。『卒業』(1967年)の主人公は、背が高くハンサムとはいえない黒髪で身長は低く鼻に特徴のあるユダヤ系の見た目をしたダスティン・ホフマンが演じる。彼が愛する女性を、ハンサムな恋人との結婚から奪い去り、バスに乗り込み、行く宛のない未来へ向かっていく。晴れやかな笑みをたたえた彼らの表情は乗客の視線に翳って映画は終わりを迎える。

 「ここではないどこか」は、夢物語の一種にすぎず、どこにもなく、到達することも出来ない桃源郷なのだ。

 そういった夢を見ることは決して100%の間違いではない。夢を見ることで得られるものもある。だがこと「さらざんまい」ではさらざんまい…”心”に三昧(集中)することを説いている。

 吾妻サラの「放課後カッパー」ではハッキリと”生きていない”と歌っているが、サラ=心が教室に生きていない、学校教育や現代の生活に心がないと歌っているのだろう。

で分析したように、《ロマンの否定》は虚構性の指摘とともに本作の大きなテーマだ。「ここではないどこか」は、誕生と同時に否定される概念である。ただひたすら地味でゆるやかな、めざましくない成長こそが現実だ。

・忘却と後悔 歴史の蒸発

  一度は望んだ忘却を拒むラインは「エターナル・サンシャイン」を思い出した。あらすじはwikipediaより下記に引用するが、忘れたい記憶に対して処置が可能になった世界で、一度忘れると決めたにも拘らずいざ処置が及びそうになると記憶の中を彼女の手を引いて逃げ回る物語だ。人の愚かさや業が詰まっている。しかし無情にも(頼んだのは主人公なのだが…)、記憶から彼女が消されてしまった主人公は、また彼女と出会い恋をする。
 非常にロマンチックな作品ではあるが、大事なことは《記憶がなければ人は同じことを繰り返す》ということである。

 もうすぐヴァレンタインという季節。平凡な男ジョエルは、恋人クレメンタイン(クレム)と喧嘩をしてしまう。何とか仲直りしようとプレゼントを買って彼女の働く本屋に行くが、クレムは彼を知らないかのように扱い、目の前でほかの男といちゃつく始末。ジョエルはひどいショックを受ける。やがて彼はクレムが記憶を消す手術を受けたことを知る。苦しんだ末、ジョエルもクレムの記憶を消し去る手術を受けることを決心。手術を受けながら、ジョエルはクレムとの思い出をさまよい、やがて無意識下で手術に抵抗し始める。
エターナルサンシャイン」あらすじ Wikipediaより

 考察②では帝国主義に陥った日本、現在の日本の戦争への近しさを指摘したが、忘却は現在の日本の大きなテーマではないだろうか。
 資本主義の欺瞞や戦争・震災について詳しくは山田玲司先生の考察も是非聞いていただきたい。
「山田玲司のヤングサンデー」 https://ch.nicovideo.jp/yamadareiji

 また、以下の記事も参照願いたい。平成の終わりに読んで非常に心を揺さぶられたが、なぜ平成を代表するあらゆる事件は発生したか?を『歴史の蒸発』と指摘するジャーナリスト吉岡忍さんが語る記事である。
 記憶と世代の分断が自分を何者かわからなくさせているのではないか、死と生の分断など非常に興味深い。

吉岡忍さん「なぜ、彼は人を殺したのか」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_04.html

 また、カワウソイヤァそのものが忘却としての音楽(音楽による無の世界への誘致、反知性的なものとしての音楽)でもあることは考察③を一読願いたい。


《続く予定…》


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?