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リトルナイトメア2考察 モモと灰色の男たち

取り急ぎ自分以外に唱えていない説をざっとまとめておこうと思う。

リトルナイトメア2はビジュアルをみて、都市+ノッポの男(シンマン)がモチーフだ。
作品をプレイしているとテレビと時計がいたるところに配置されている。
これを見てミヒャエル・エンデのモモをチラッと思い出した。
https://textview.jp/post/culture/43413

モノ(mono)というのはモモ(momo)に一つ足りない。
何が足りないかというと、人の話を聴くムダだったり人を受け入れる度量だ。
モノはその意味が七つの大罪だけならば、Sixに対応してOneでもよかったはず。
なぜギリシャ数字のモノになったかというとモモにかかっているからではないだろうか?

さらに、時間泥棒はシステム化、最適化、時間の節約を人に勧め、時間貯蓄銀行に貯蓄を行う。
しかしそれによって人はどんどん金銭的にも豊かになるが、節約すればするほど時間が失われていく。時間は貯めることが本来できないからだ。
節約したはずの時間は使うことができないまままた新たに発生する問題/課題への対処へと昇華されていく。
そこで失われていくものは、人間的な豊かさ、温かさ、心のゆとりなのではないか…というのがミヒャエル・エンデの『モモ』の提起する問題だ。

シンマンと灰色の男たちはそもそも見た目がそっくりだ。スーツで顔がみえず没個性的である。
さらに、シンマンはテレビというエンタメ的なマスメディアの権化だ。
これはエンタメ化したマスメディア、自分に優しく楽しませてくれるだけのモニターにかじりつく大人たちの時間を奪っている。
その結果子どもたちは見捨てられ、世話をされていない。
この世に生きるのをやめてしまって、頭をテレビにいれて自殺をしたりするし、この世から体ごといなくなってしまう。


モノはモモに似て灰色の男に立ち向かうが、名前が示す通りモモではない。
彼はシックスの大事にするオルゴールをなぜ大事にするのか、なぜとらわれていたのか、何を思っているのか、そういった心を問わない。
問答無用で自分の目的にムダなシックスの大事なオルゴールを破壊した。
無駄を省くのはだれか?シンマンだ。
世話をされず、大人からの愛情を受けず育った子どもたちが大人になると称賛を求めスターに憧れる話は多くあるが、モノとシンマンはまさにそのものともいえる。
このゲームに存在したのがモモであれば、シックスを救い世界をも正すことができただろう。
でも彼はモモでなく、シンマンに至る道を突き進んできた。故にシックスに突き離されてしまうのだろう。
世界がそうなのであるから、一人の子どもがあらがえるものではないし、彼の責任ではないのだが、彼は次の世代のモノを生み出す大人へと変貌する。


それはミヒャエル・エンデが『モモ』で伝えていることそのままなのだろう。

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