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《さらざんまい考察①》再接続した最終話・ロマンの否定《ネタバレあり》

 多くの人の腰を抜かせた、2019春アニメ「さらざんまい」。
浅草を舞台として、少年3人が夜な夜な河童に変身しては、欲望にとらわれたカパゾンビの尻子玉を抜き、願いをかなえる皿を得る物語。

 第1話が始まった時点でループ説はあらゆる人が気づいたように思う。ループ説を元に全体の物語を読み解いていきたい。

・カッパ・カパゾンビそして帝国の謎
 
 また、カパゾンビの生まれる過程を一度さらいたいとおもう。
①レオにより拳銃が撃ち込まれ、魂をぬかれ死体をハコにつめられる。
②レオマブによりカワウソイヤァが踊られ、黒ケッピにより愛と欲の判定が行われる。
③夜になると吾妻橋バトルフィールドに現れ、欲望の対象をかき集める。

 さらに、10話~11話において兄喪失の痛みに耐えかねた悠がカワウソ(黒ケッピ/絶望)にとり憑かれ、その過程を視聴者も体験することとなる。愛する者の形をとり、黒ケッピに飲まれ時空をこえることで己の手によって過去の自分を消し去る(=つながりを断ち孤立する)ことで円の外側へ飛び出すのだ。

 これが「さらざんまい」において打ち勝つべきカパゾンビだ。そもそも、今想像されるゾンビというものはジョージ・A・ロメロによって撮られた映画「ゾンビ」から始まっている。それまでのゾンビとはブードゥー教の使役者によって死体に簡単な作業を担わされた自我のない下っ端に過ぎない。よってロメロのゾンビ以前は全て黒幕を倒せばハッピーエンドに至る。しかしロメロの手によってゾンビは誰にも操られていないが自我を亡くし、生前の記憶から物欲と食欲、資本主義の大量消費の癖に突き動かされ手当たり次第に人さえも喰らい尽くすバケモノとなった。ゾンビ=資本主義の亡者なのだ。

 カパゾンビもまさにこの文脈に沿った存在だ。自分の欲望が物質的に満たされれば幸せになれるという資本主義の《嘘》、《あればあるほどハッピー》に突き動かされる亡者だ。しかしそれはエネルギーを搾取する<帝国>が存在する。(この帝国はエネルギーや資源を求め他所へ他所へと侵略をしていたかつての日本と重なるものだ。)モノに目がくらみ、頭が変形し現実が見えなくなってしまった存在がカパゾンビなのだ。

 実際、カワウソイヤァそのもの自体はめくらましに過ぎないように思う。いわゆるイケメンが踊っていて、視聴者の目を楽しませているに過ぎない。彼らはカワウソでなく河童なのだから。それよりも大事なのは背後に映る機械の描写だ。これはドゥールズ/ガタリの集合的無意識と思われる。

さらにドゥルーズ&ガタリに到って、無意識は生産、創造する機械、工場のようなものとして捉えられ、その中で接続される要素として、集合的無意識は捉えられる。しかしバラバラなものが元型に還元されてゆくのではなく、むしろ元型が個人のほうに解体されて使われるのである。元型のひとつであるエディプス・コンプレックスが、もっとも強い元型として精神分析に利用されたことに対して、ユングは複数の元型を並置して、相対化したと考えられる。

 簡単にまとめるならば、「つながりたい」欲望を人は大きな河として共有していて、それらが工場で分配され梱包されるように人々の下に届くというものだ。「つながりたい」という感情のもとに人はみな繋がっているともいえる。しかしカワウソ(嘘)に分断され人はカパゾンビにつくりかえられていくのだ。

 この動きは現代のあらゆるハラスメントや毒親といった問題は合理的に他人をコントロールするために感情を廃させる動きと酷似してはいないだろうか。

(余談だが、その背景を描きながらレオマブの踊りで目を晦まさせる手腕はカワウソ=イクニ監督の手腕の鮮やかさそのものだ。楽しんでみている裏で蠢く巨悪を見たものは体験することとなる!)

・ループのはじまり、そして《つながり》が救った久慈悠の魂 

冒頭第1話、ここにはループを感じさせるような仕掛けが多い。
-冒頭、一稀は突如空から降る㋐に貫かれる。
-二度挟まれる夢か現実か曖昧な描写
-ケッピの呼び声に集められた一稀と悠、(悠がハッとしたように)「このやりとりは…」とつぶやく
 検証してはいないが、はじまりとおわりから対応する話数を同時再生すると見事に反転してるとも言う。

 最終話、3年を塀の中ですごした久慈悠は吾妻橋から身を投げる。身を投げるとは言うが、「それがどうした!」と叫んで顔は晴れやかだ。そして空から○アが降り注ぎ、悠を貫く。この描写は、1話の一稀のアバンと上下が逆なだけで全く同じである。

 この瞬間、終わりと始まりが接続し、最終話、刑に服した後街へ戻った悠を一稀と燕太が迎えに来る河へと繋がる。

 吾妻サラによって未来が漏洩するが、「これは可能性の一つ」だという。おそらく過去も現在も、たくさんの可能性があったのだ。それだけ世界は存在していた。

・共依存ではなく《つながり》をえらべ

 震災からこちら、不況の底は知れず読者は癒しや逃避先を求めた。それはロマンである。その中の一つに10年代後半を象徴するといってもいい《共依存》は含まれるように思う。

 《共依存》は久慈兄弟のテーマだ。親を喪った(死別に限らずとも)子ども達は社会の輪からはじき出され、そして大人不在の相互依存は少年犯罪の温床ともいうべき、気づかれない現代社会の暗部そのものだ。アニメの設定のスパイスかつロマンとしてそういう設定は描き出されるが、幾原監督はそういったアニメの視聴者から外れた存在をロマンを否定しながら描き出した。世界を許せなくとも、二人だけの閉じた《共依存》に未来はないのだ。

 実際誓を喪った悠は喪失感に耐え切れず簡単にカワウソにとり憑かれてしまう。共依存は深く心を蝕み、ただひとりの人喪った喪失感からセルフネグレクトに陥り実際人を死に追いやることもある現代の病だ。さらざんまいのループの中でも、一稀と燕太が救えなかった悠の方が圧倒的に多いはずだ。

 アニメ・漫画といえばというような代名詞ともいえる《セカイ系》も『君とボクを引き離すこんな世界なら世界が滅んでしまえばいい』という不条理でありながら心をくすぐる甘いロマンだ。それを今作は否定する。

 だって、現実は願ったって滅ばないのだから。


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