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【読書】 私とは何か 「個人」から「分人」へ(7/100)

こんばんは。
とりまめです。

毎日投稿が途切れてしまいましたが、たるんだ心を引き締めるべくnote投稿を続けていきます。
#途切れた分を今日の投稿でカバーすべく鬼の3投稿

三連休はいかがお過ごしでしたか。
土曜日は毎週冷蔵庫の補充日です。
今まではほぼ毎日、仕事帰りに食事の材料を買い出してましたが、ここ2ヶ月は例のカードでマイルをためるため、あらゆる支出をクレカ払いに集約したこともあり、週末土曜日に食材をまとめ買いしています。
その結果、平日の時短とポイ活(買い出しするスーパーのポイント5倍デーww)になっており一石二鳥です。
今日は過去最高の買い出し記録をたたきだしました。。

日曜日は久しぶりに息子の野球の練習試合を観に行き、帰りに地元の漁港で殻付きの牡蠣を80個ほど買って帰り、実家で牡蠣焼きパーティをしました。息子は先発投手で無失点に抑えており、中学から始めた投手としての成長を見ることができてよかったです。
それと、この時期の牡蠣はめちゃくちゃ大きく、身も殻いっぱいに詰まっていてめちゃくちゃ美味しかったです。あと1ヶ月で牡蠣のシーズンも終わるのでもう一回は牡蠣焼きパーティをしようと思います。

さて、今日は「週末読書」の投稿になります。
課題図書は「私とは何か 「個人」から「分人」へ」です。
以前、Voicyパーソナリティの澤さんが紹介していた図書で、著書の「メタ思考」と同期している内容であり、めちゃくちゃ面白かったです。
新書なんでサクッと読めるのでオススメです。


● 個人から分人へ

「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

職場や職場、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。

自分自身を、更には自分と他者との関係を、「分人主義」という観点から見つめ直すことで、自分を全肯定する難しさ、全否定してしまう苦しさから解放され、複雑化する先行き不透明な社会を生きるための具体的な足場を築くことが出来ます。

「分人主義」から、「私とは何か」を考えてみましょう。

分人主義公式サイトより引用

この説明の通りなんですが、分人とは、自分で勝手に生み出す人格ではなく、常に、環境や対人関係の中で形成されるものだといいます。

私たちの生きている世界に、唯一絶対の場所がないように、分人も、一人一人の人間が独自の構成比率で抱えている。
そして、そのスイッチングは、中心の司令塔が意識的に行っているのではない。

本著より引用

この考え方がすごくしっくりきています。
個人というもの幻想で、個人は分人の集まりであるということ。
個人を表すものは結局はその人の「顔」のみで、対人関係で形成されるそれぞれの分人の構成比率でその人の個性を形作っているということです。

その中で、分人は関係性が深まるにつれて、「社会的な分人」から「グループ向けの分人」、そして特定の人に向けた「特定の相手に向けた分人」となります。

散歩中に挨拶だけするようなおばちゃんは社会的な分人で対応します。
何かのグループ(仕事や趣味)で社会的な分人が限定されたものです。

面白いなぁと思った考え方が、次に紹介する文です。

私たちに知りうるのは、相手の自分向けの分人だけである。それが現れる時、相手の他の分人は隠れてしまう。
分割されていない、まったく個人が自分の前に姿を現すなどということは、不可能である。それを当然のこととして受け容れなければならない。
高校デビューや大学デビューを揶揄するのは、自分が知ってる本当のアイツは、あんなじゃなかったはずだという思い込みである。昔を知ってる人間がいないのをいいことに、ウソをついている、と。
しかし、環境が変われば、当然、分人の構成比率も変化する。

本著より引用

高校デビューがなぜ起こるのか、分人思想を使えばこんなにもしっくりくる。考え方のフレームワークって本当に大事だと気づかされました。

● 恋愛観の説明がしっくりくる

前述の高校デビューのように、「恋愛観」について書いてある部分の表現がとても好きだった(自分に合っていた)ので紹介します。

これまでの恋愛観は、一対一の個人同士が、互いに恋をし、愛するというものだった。しかし、分人のレヴェルで見るならば、次のように考えることが出来る。

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である。
愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、だからこそ、より一層、相手を愛する。相手に感謝する。

本著より引用

なんと綺麗な文章化でしょうか。
愛とは、その人といるときの自分の分人が好きという状態。

この定義の仕方は、広くあてはまり、両親の前での分人、子供の前での分人、師の前での分人、それらが心地よくそれらの分人を生きることが喜びであるならば、それらを愛していることだといいます。

私もこれからの人生で、妻や子供達との関係性で悩む時には一度立ち止まってこう問いかけてみることにします。

「その人と一緒にいるときの自分が好きかどうか」
そうすれば答えが出るはずです。

このnoteを書いてみようと思ったのも、アウトプットしたい内容が集まると自分軸がはっきりしてきて、自分探しの旅が終わるのではと期待していたところもあります。
でも本著を読み終え、自分が求めているものは個人といったものはなく、日々生きていていろんな人と出会い考え、たくさんの分人の構成比がそのときの個人を作っているのだというイメージが腹落ちしました。

結論、自分らしさや夢といったものは現実の世界の連続でしかないといったとこでしょうか。
うだうだ言ってる暇があれば、楽しそうだと思ったことをとことんやってみます。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
それではまた明日。


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