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【novel】葉桜の頃

彼女はいつも屈託なく笑う。
それはもう楽しそうに、一点の曇りも無い、“零れ落ちる“と表現するのが似合う笑顔で。

外苑前の並木道に面したカフェは、いつも通り賑やかだった。
気持ちの良いお天気だからとテラスに席を取り、日焼けしないかと心配した僕に、
「日焼け止めしてるし。それに、空も葉っぱの緑も綺麗でしょう?」
と、こともなげに言って彼女は笑った。

一週間ぶりに会った彼女は、この数日に起こった出来事を、実に楽しそうに一つひとつ僕に報告した。
真正面に座るかたちでそのクルクル変わる表情を見ていると、時々眩しすぎて目を逸らしたくなる。
でも僕は決して目を逸らさない。
一瞬たりとも逃さず、彼女の表情を見ていたい。

僕はいま、恋をしている。

僕らは大学で出逢った。
尤も僕は2年の途中で長いこと休学して海外を回ったりしていて、大学に戻った時には同級生たちは社会人になって数年経っていたから、3年生のころ新入生として入学してきた彼女は、実学年に直すとだいぶ歳下だ。
卒業後にゼミ選びの相談を受けてからというもの、卒論や就職や、何かの節目になると必ず何かしら相談が来るという関係が続いている。

今回は、転職の相談。
卒業してからもう数年、彼女も中堅社員に差し掛かって、色々と悩むところもあるらしい。

大学時代には同級生と付き合っていたはずだが、その後どうなったかは彼女も自分からは話さないし、先輩と後輩というスタンスをお互いに崩さなかったせいか、僕から恋愛話まで聞くのは憚られて話題に出したこともなかった。
こちらも海外を回っていた時に知り合った女性と長いこと付き合っていたけれど、遠距離恋愛特有の淋しさを紛らわせるのが辛くなり、近くにいれば直ぐに解けるはずの誤解や、ちょっとした認識のズレが積み重なってストレスになり、だからといって結婚するという選択がベストとも思えず、とうとう昨年の秋、別れることを決めた。

連絡を貰ったのは、毎年の年末の恒例行事だった彼女との越境デートが無く、何年か振りに実家に帰って年末年始を過ごして、ひとりになったことをようやく実感し始めた頃だった。
待ち合わせたこのカフェで(その頃はまだ雪がちらついていたから、流石にテラスではなく中の席に座った)数年ぶりに再会したとき、「こんなに綺麗な子だったっけ?」と僕はこっそり驚いていた。

今まで、何かにつけて相談してきてくれる後輩のひとりとしてしか見たことの無かった彼女は、急に何だか大人びて見えた。
10代後半から20代後半、ずっとではないにせよ何かにつけて顔を合わせていたはずだけれど。
いや、もしかしたらそれは、それまで僕が良く彼女の事を見ていなかっただけなのかもしれないし、無邪気過ぎるほどの笑顔を見せる彼女を、いつまでも初めて逢った頃の、少女の面影がまだ色濃く残る印象のまま見ていただけなのかもしれない。

転職と言っても、今すぐ行きたい企業があるわけでは無いのだ、と彼女は言った。
長らく付き合っていたひとと離れて、漠然とこの先も一緒にいるのだろうとか、家庭と仕事を両立させるのだろうと想像していたことは、本当に自分が望んだ事だったのか、と疑問に思ったのだ、と。
それが、初めて彼女から聞く恋愛話だった。
恋愛対象として意識などしてこなかった彼女のことを、初めて後輩ではなく女性として意識した瞬間だった。

あれから数ヶ月、転職活動の進捗と相談として、月に数回彼女から声がかかるようになり、平日の仕事終わりか休日に数時間、こうしてカフェや比較的静かなダイニングバーで会っている。
彼女の転職活動が終われば、きっとまた暫く声は掛からなくなる。
その状況は手放しでは喜べないな、と頭の隅で考えているなんて、本当にエゴに塗れた奴だよな、と自嘲する。

どんなに仕事上がりで疲れていても、休日に休みたいと思っていても、彼女の相談に真摯に向き合ってあげたいと思うのは、ひとえに僕が彼女の笑顔を見たい、そんな少し狡い下心があるからに違いなかった。

でも、彼女の無邪気な笑顔や、仕事に対する姿勢や、時折見せる芯の強さを感じるにつけ、男の下心丸出しで誘うわけにもいかなくて、こちらも至って紳士な態度を崩せずにいる。
本当のところは、もっと色んな表情も見たいのだけれど。

もう、先輩として長年体面を保ってきたし、若さで突っ走るような歳でもない。
急に態度を変えたら、もう何も相談して貰えなくなるかもしれない。

気付いたら、彼女の近況報告はひととおり終わっていて、転職先も間もなく決まりそうな雰囲気だということで落ち着いていた。
僕も当たり障りなくコメントをしていたし、休日の昼下がりの穏やかな時間が流れていた。

彼女はホッと息をついて、少し冷めたコーヒーを口にすると、そのまま面している大通りに目を向けた。
会話が途切れて、街の音や風に揺れる樹々の音が聞こえた。

彼女は口元に薄っすら笑みを浮かべながら、少し大人の顔になって、新緑の樹々を見ている。
その横顔に、僕は釘付けになる。

何か言おうとしたけれど適当な話題も見つからなくて、無理に言葉を続けるのをやめて、ただ彼女の横顔を見つめていた。

綺麗だな、と思った。
いわゆる美人とは違うけれど、透明感のある美しさが彼女には備わっていた。

無邪気な笑顔と、人を真っ直ぐに信用してしまうような純真さ。
少し危なっかしいくらいの素直さは、今日の雲ひとつない澄んだ空のようだ。

このまま、時が止まってしまえばいいのに。

時が流れていくのが勿体無くて、この時間が愛おしくて、僕はただただ彼女の横顔を見ているだけだ。
彼女はいま、何を考えているのだろう。

視線に気付いたのか、彼女がこちらを振り返って、何か言いたげにしながら、ちょっと困ったように笑顔を見せた。
そして、一瞬口を引き結んだあと、意を決したように顔を上げた。

彼女の急な変化に、年甲斐もなく僕は慌てた。
もしかしたら、もう転職も決まりそうだし、会うのは今日で終わりということだろうか。
ここで踏み出さなければ、もう一生兄貴分のままかもしれない。

「あの…」
「あのさ」
彼女と僕の声が重なる。
ふっと二人の間の空気が軽くなる。

同時だね、と笑い合いながら、もう一度僕は切り出した。

「このあと予定が無かったら、少し歩かない」

少し驚いたように目を見開いた彼女の表情が、いつもの無邪気な笑顔に変わった。

何から、話そうか。
いや、何でもいい。
素直に、真っ直ぐに。

深呼吸を一つ。
席を立って、緑のトンネルの中に歩き出す。

inspired by "若葉のひと“
©︎小田和正 2011

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