三島由紀夫「詩を書く少年」を読んで思ったこと

今回は三島由紀夫の作品を読んで思ったことを書きたいと思う。完全に保険をかけることになるが、三島のバックグラウンドを詳しく調べた訳でもないし、創作ノートにも目を通していないので、的はずれな感想である可能性は否めないので現時点でのものであることは承知して欲しい。
今回取り上げる作品は「詩を書く少年」である。まず「詩を書く少年」のあらすじを簡単に説明しようと思う。この作品は、三島の自伝的作品であり、主な登場人物は少年と少年の先輩であるRである。主人公の少年は15歳であり、詩的才能に恵まれていた。その才能は周囲も認めるものであり、1日に2、3個の詩が自然と降りてくるほどであった。また少年は自殺するほどの勇気は持たなかったが、若さに人間の美点を感じており、天才は若くして死ぬべきものだと思っていた。そんななか、少年は学習院の先輩であり当時20歳であったRと文通をする習慣を持つことになる。Rは確かに学習院の先輩のなかでは才能があり、周囲からの評価も高かったが、少年はRと文通をするなかで彼の憂鬱や不安の翳を見透かしていた。そしてある日少年はRから恋愛をしていることを告白される。その当時少年は詩の題材としてよく恋愛を選んでいた。少年は恋愛をしたことがなかったが、心の刻々の変貌を歌うことに気が移っていたのである。Rからの告白、それは少年にとって未知の要素が1つもないものであった。すべては書かれ、予感され、復習されているものであった。少年はRに対して「この人は天才ではないんだ。なぜなら天才は恋愛をしないんだもの。」という感想を抱いた。しかしながら、少年はRから衝撃的な言葉を投げ掛けられることになる。それは「君にはまだわからないんだよ。」というものだった。この言葉を受け、少年は人生ではじめて僕もいつか詩を書かないようになるかもしれないと思うことになるのであった。この作品は自伝的なものとされているので少年=三島とすると、15歳の時に自身に対するナルシシズムが一度瓦解したことになる。またこの作品から三島は「経験」をせずとも「推察」をもってして、世の中を知っていたのではないかと考えることができる。三島はその才能故に、最後まで肉体を伴った経験の乏しさにコンプレックスを抱いていた。経験せずとも世の中のあらゆることの相場が分かってしまっていた。個人的意見にはなるが、三島の切腹は「絶対的なものへの思慕や人生の大義を全うすること」の仮面を被った「死をもってして自身の生を感じること、すなわち生への衝動」だったのではないかと思う。。ニーチェは150年後の世界を予見していたし、三島は少なくとも50年後の未来が見ることができていたような気がする。私は凡庸さ故に、1年後の未来も分からないし、ましてや1ヶ月後の自分まで想像をすることができない。しかしながらよく自分の将来についてや、起こるかもわからないものに対して不安を募らせている。アドラー心理学では後悔は「過去」、不安は「未来」に対する思いがあって初めて生じるものであるとされる。このことからも私は現代において心理的条件のみにフォーカスすると、「戦略的刹那主義」を採ることが良いように思う。刹那主義とは、過去や将来も考えず現在のこの瞬間の感情のままに生きようとする考え方とされる。よく現代人の無思想やなにも考えていない状態を批判する文脈で使われる刹那主義であるが、それを戦略的に行うことがミソである。また刹那主義を掲げながら生きるときは現実逃避をするのではなく、今現在の目の前の現実を直視しながら生きることを目標にすべきであるように思う。

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