見出し画像

(エッセイ)キユーピーの3分クッキング

 最近、とつぜん人に声をかけられることが多い。だいたいが道を訊かれたり、キャッチだったり。そのとき、あまりにもとつぜんなものだから「わ、びっくりした」と言ってしまう。それで向こうも「驚かせてすいません…」みたいになったり、向こうも向こうでびっくりしたり。
 それにしても道を歩いている際の、死角から人が現れることの怖さと言ったらない。雑多な風景の中に、顔、あるいは声が現れるのである。ぼやーっとした中に、急に「意味のあるもの」が出てくる。意味は怖い。解釈を強要される感じが怖い。でもそんなことを言い出したら、大抵のものに意味がある、すべてと言ってもいいかもしれない。
 一時期、メンタルが弱っているとき、この「意味」にやられていた。脳が休息を求めているのに、どこに視線を送っても、意味が五感に染み入ってくる。人の声とか、足音とか、病院の名前とか、パチンコ店の光とか、対向車とか…脳が敏感になっていて、なににでも反応してしまう。脳を取り出して誰かに預けたり、洗浄したり、図書館に返したり、スーパーにあるキャベツの横に置いたりしたい気分だった。
 だからそのときは、とにかく無意味なもの、無意味に近いものを求めていた。たとえばテレビでいうと、映画やドラマ、バラエティ番組などは最悪で、どちらかというと幕間の短い番組などがそれに近かった。とくにキユーピーの3分クッキングなんかは最高で、なんなんだろうこの意味のなさは、と思いながら観ていた。決められた時間内で、料理に慣れた人が、あらかじめ準備しておいた食材を使って、手順どおりに料理をつくる。すると料理ができるのだ。この当たり前さには、感動すら覚えた。できないわけがない。途中で料理人が誘拐されたり、スタジオが爆発したり、ということがないかぎり、絶対に料理は完成するのだ。安心して見ていられた。いったん目を逸らしても、トイレに行っても、画面を見れば、変わらず料理を作っている。できたからといって、ハイタッチをしたり打ち上げをしたりするわけでもなく、作った側も「はい、できました(当たり前ですよね?)」みたいなテンションなのでから、こちらも素でいられる。キユーピーの3分クッキングは、そういう点で、無意味ゆえに、自分にとって意味のあるものだった。ちなみに「キユーピー」であって「キューピー」でない。この点を間違えてはならない。あと「3分クッキング」を謳ってはいるが、実際の尺は10分。Wikiで調べると「実際に3分で作れるものは少ない」などの罵詈雑言が書かれている。あともっと言うと、キユーピーの3分クッキングが、無意味なわけない。意味はある。短時間で料理を作りたい人にとっては、とても有意義な番組だと思う。でも当時の自分は、無意味さを感じていた。だから、きっと人によって意味/無意味というのは変わってくるのだと思う。自分だけの無意味を見つけよう!
 そういうこともあって、無意味な世界に浸っているときに、急に意味が現れるみたいなのは、いまだに苦手だ。道を訊くなら、まずは遠くに立って「いまから道を訊きます。いいですか?」的なことを書いたプラカードを掲げていてほしい。そうすれば無視するか、応答するかの選択肢が、こちらに生まれるので。あと道を訊かれたとて、こちらの空間把握能力は死んでるので、的確に案内できる自信がない。まっすぐいって右曲がってください、くらいのことしか言えない。でもそれでは郵便局に着けないよね。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?