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いつでもどこでも正義を貫く?

くだんの「除名問題」に絡んで、以前書いた文章を載せてみる。


ポストに共産党のチラシが入っていた。

そこに1つ、気になる記述があった。

「日本共産党はどんな場合でも、平和的・合法的な方法で社会を変える党です。『暴力革命』などという方針をとったことは一度もありません。」

うーん。そう書きたい気持ちはわかるのだが、こんなことを書くから突っ込まれるんだよな。

五全協で「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである」とする「51年綱領」が採択され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」という方針が打ち出され、山村工作隊が結成され、火焔瓶党争を行ったという事実があるし、それが破防法制定の根拠になっている。

現在の執行部からすれば「五全協の方針は、分派(所感派)による党の分裂と党機関の乗っ取り、ソ連・中国による武装路線の押しつけによって生まれたもので、党として正式に採択した方針ではない。」という立場なのだろうが、そんなのは共産党内部の事情なのであって、分派が勝手にやったという理屈は、国民一般に受け入れられるものではない。それが証拠に、その方針の下で行われた衆議院選挙で共産党候補は全滅しているのだ。(それに、その「分派」が、実は90%の多数派だったりもする)

確かに、その辺の事情はややこしくて理解されづらいし、選挙に不利になるかもしれないが、この辺を大雑把に「一度もありません」なんて総括されたら、「やっぱり共産党はウソつきだ」という不信と非難を消すことはできないと思う。

どうして共産党は常に無謬論を貫こうとするのだろう? 人間がやってることに必ず間違いはある。「党はいつでもどこでも常に正しかった」なんて言われたら、むしろ宗教的ないかがわしさを醸し出すとしか思えないのだが。

「この時期にこういう過ちがありましたが、このように反省し、克服したので安心して下さい」と言った方が、長い目で見て信頼を得られると思うのだが。

こういう党史の書き方にはどうしても疑念を感じてしまう。

これが、将来「六全協以降の方針は、分派(国際派=宮本、不破、志位一派)による党機関の乗っ取り、修正主義、議会万能主義的妄想によって生まれたもので、党として正式に採択した方針ではない。」と書き換えられることがないという保証はどこにもないのだ。

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