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真実はいつもひとつ?

人間60年も生きたら、少しは世の中のことがわかるかと思ってたけど、どんどん迷いの袋小路に入って行くばかり。

最近は、「真実、真理なんてないよね」と悟りつつあり。「事実は存在せず、解釈だけが存在する」というニーチェ先生のお言葉が妥当な着地点かなあと思う今日この頃。

悔しいから、無理矢理オリジナリティーを付加するとすれば、「事実は存在せず、認識だけが存在する」あたりかナ?

まあ、極論すると、物や事実が存在するというのは、脳が「それが存在していると認識している」と同義なんですよねぇ。もちろん人間の認識以前に存在というのはある(実存する?)んでしょうが、「認識されない存在」っていうのは、人間にとって無意味っていうか、「ない」とおんなじですからねぇ。

まあ、そんなことはかなり昔から言われてて、「私が目を閉じると世界はなくなる」みたいな意識や感覚や考え方は存在しました。要するに見る角度や見方によって世界の見え方は変わるし、「見え方」=「事実のあり方」なんですよね。

でも、それは観念のゲームみたいなもの(観念論?)だったわけですが、最近の研究で、緑内障や一部の認知症の症状で、「脳が視覚を補填する」ということが明確にわかってきた。あるはずの信号機が視野から消えていたり、いないはずの人間がはっきりと見えたり。そういう視覚情報を脳が勝手に作るということがわかってきた。

これを幻覚というのは簡単だけど、考えてみたら、「幻覚」と「正しい視覚情報」の境界って、そんなに劃然としたものではないのではないか?という根本的な疑問が生まれてきます。

例えば、色覚の問題。いわゆる色覚異常については言うまでもありませんが、正常とされている人でも、色の「見え方」にはかなりの個人差があると思われます。家電量販店にたくさん並んでいる大型テレビを見ても、1つとして完全に同じ色調のテレビはない。ああいうことが、人間の脳内でも必ずあるはずです。そもそも、視覚情報というのは、眼球という器官が感知する光学的な刺激はその時点では無意味な素材に過ぎず、その素材情報を脳内の視覚野で情報処理することによって初めて視覚情報として認識されるわけです。とすれば、実際にそこに何が存在するかとより、どのように見えているか=認識しているか、こそが視覚情報と言うべきでしょう。

となると、いわゆる幻覚と正覚(?)に、本質的な違いはない、と言ったら言い過ぎでしょうか?

もし、将来、脳内の視覚野に直接架空の情報を書き込むことが可能になった場合、そこで見えている情報を、果たしてフェイクと言い切れるかどうか? これは微妙な問題なのではないかと思います。今、生成AIのフェイク画像やフェイク動画が問題になっていますが、もしかしたらこれは、そういう未来状況の前段階ではないのかと思えなくもありません。

と、視覚情報の話ばかり書いてきましたが、これと同じようなことは、あらゆる情報に関して言えることではないでしょうか? 視覚、聴覚、痛覚、味覚といった体感のみならず、世の中の出来事を「どう見るか」というレベルにおいても同じなのだと思わざるを得ません。

近年のコロナ問題で、私はこのことを痛感させられました。

テレビやネットや本を見ても、まさに百家争鳴状態で、何が正しくて、何が正しくないのかさっぱりわからない。そこで、できるだけ「客観情報」「確からしい」情報を得るべく、専門家の情報を得ようとしました。医者というだけではまだ信用がならないので、ウイルス学や免疫学の専門家の発信する情報に絞って調べました。それで絶望しました。この専門家たちの意見が、コロナについて、防疫について、ワクチンについて、相当に違う。違うどころか真逆の意見も少なからずある。「いったい何を信じたらいいんだ?」と途方に暮れました。

そこで「事実は存在しない、解釈(認識)だけが存在する」という聞きかじりの知識が確証に変わって行ったわけです。

長文失礼しました。(まあ、こんな長いの誰も読まないだろうから良いでしょう?)

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