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小説『水蜜桃の涙』

この章の登場人物:
成沢清之助・・・・高等師範学校の最終学年に通う都会育ちの青年
谷口 倖造・・・・高等師範学校の教授

「第5章 悲運の二人」

谷口教授の故郷へ、美しいと教授自身が賞賛するその景色を見るという目的だけでやってきた昨日の往路。
美しいというのは嘘ではなく、万緑の土地、風光明媚なる場所であった。
しかし、その地で教師の職に就くという気持ちも覚悟も無く、昨日の村への道はあまり気乗りのするものではなかった。いったい僕はどうすればよいのだろう。

あの少女、輝子にもう一度会ってみたい。
その気持ちはますます募っていくばかりだ。
昨日最初に彼女を見かけた池もすでに通り過ぎたが、眺めうる限り今日はいないようだった。
ほんの一縷いちるの望みも砕かれてしまい、意気消沈している。

帰りの道も足がどうにも重く、口数も妙に少なくなっているので教授が不審に思ったのか、
「成沢君、もうきつくなってしまったのか?あまりしゃべらないねえ」
と尋ねるので、
「あ、いえ、十分過ぎるほど休ませていただきましたから、まだまだ大丈夫です。ちょっと考え事をしていて…」
と答えたが、そういえば教授に聞いておきたいことがあったことを思い出した。
僕が眠ってしまったあとに交わされた話の内容だ。ここで聞いておかないと、またきっと後悔する。

「先生、昨夜は本当にすみませんでした。ところで、今朝村長が何か妙なことをおっしゃっていましたよね。伊ケ谷さんのことで…。僕が寝たあと、何か話が出たんですか?」

「あ?うん…まあ、あるにはあったが、ちょっと驚きの話でね」
やはり教授の反応はあまり芳しいものではない。

「う~ん…びっくりしたよ。いや、なに…伊ケ谷氏の奥方が健在ではないことが話題にのぼってね。早くに病気で亡くされたらしいのだが、あの宗一郎君も小さい頃だったろうから、いろいろと大変だったろうし寂しい思いもされてきたんじゃないかと話していたら…」

ここまできて再び言い淀んでいる教授に、視線を向けて早く次を話してくれと促す。

「村長が言うんだ。伊ケ谷氏は次の奥方をもらう予定があると。だから、私がそれはめでたい話ではないですかと言うと、ちょっとばかり口つぐんだあとに明かしてくれたのだが、その相手と言うのがまだ十二歳の少女だそうなんだ」

え!?一瞬何か聞き間違いをしたのかと思ったが…再婚相手が十二歳の少女?
いやいや、いったいどういういきさつでそうなる!?

「そ…それは、合意の上の縁談ですか?相手の少女も納得のことなのでしょうか?」
この疑問はきっと誰もが持つものだろう。
相手はもう壮年期も過ぎようとしている年齢の男だのに、喜んで縁談を受け入れるとは到底思えない。

「すでに酒も入っていたし、私もまさかと思ったからね。その場で伊ケ谷氏本人にも確認したが話は本当で、なんとすでにまとまっていると。
ほら、君も昨日見かけただろう?池の畔で見たあの少女だそうだよ」

は!?
教授の言葉に思わず愕然とする。嘘ではないのか?なぜあの輝子が…。
これほどの衝撃はない!驚きと絶望となかば怒りのようなものが、胸の中に渦巻いている。
咄嗟に言葉を失う。

「あの時も稀にみる美貌ではあるなとは感じたが、それは伊ケ谷氏も同じで彼女をひとめ見かけたとたん決めたらしい。全く一方的な話のようだがそう安易な話でもないらしいのだ。
伊ケ谷氏の持つ土地を耕作している農家の長女だと言っていた。小作農家の負担を減らすためというと聞こえはいいが、言うなれば“口減らし”を口実に縁談を持ちかけて先方の親の了解を得たそうだ」

口減らし!?そんな…。
親も勝手なことをする。自分たちが楽をしたいばかりに少女を年の離れた男に嫁がせるというのか!?

「ひ、ひどい話じゃないですか。親が勝手に決めて、娘の人生を、未来を潰すなんて…。おまけにまだ十二歳なのでしょう?子どもじゃないですか!」
教授にあたる話ではないが、つい強い抗議の口調になってしまった。

「うん。そこは伊ケ谷さんも少しは考慮したのか、彼女が十五歳になるまでは待つということらしいのだ。
小学校を卒業したら、とりあえず家に入ってもらって家のことを覚えてもらい、家事一切を女中に習わせると言っていたな。それにしても、ご子息の宗一郎君と、という話なら納得もできるのだが、いや全く驚いたよ。
しかしだな、娘の方の家とすれば貧しく苦しい中に突如降ってきた縁談だ。
そこの家族は小作人とその妻、そして老父母と子どもがあの娘の上に息子が一人、下にも三人いるらしい。
小作農では日々の暮らしもままならないのだろう。そんな厳しい中、地主の家に嫁がせる、それも向こうからたっての望みだと言うのだ。彼らもこれを断るなんていう馬鹿な返事をするなどということは考えもしないだろう」

それはそうだが…。教授が言うように貧しいならではの大変さはわかるが。
しかし輝子はどう思っただろう。
まだあどけなさが残る少女…。昔の武家の政略結婚でもあるまいに、あの年でもう嫁ぎ先が決まっていて、それも自分の父親と近い年齢の男とだなんてかなりの衝撃だったのではないか。その心中をおもんぱかるに余りある。何ともかわいそうだ。

「私も昨晩この話を聞かされた時には相当驚いた。しかし田舎では昔から全くない話という訳ではないのだよ。
親が子どもの縁談を決めてしまうなんていうのは日常茶飯事だし、利害関係が一致してというのもよくある話だ。
遠くの街へ奉公に出される子どもたちも多いと聞く。
それにしても自分の故郷でいまだこのようなことが行われている。私としても素直には祝える話ではない。
それもこれも、教育が行き届いてない弊害だよ。
誰でも平等にもう一歩先の教育を受けられる機会があれば、この世には様々な選択肢があることを知ることができるのだ。
もしかしたらその娘も、もっと学びたい気持ちや見知らぬ世間を見てみたいという願望があるやもしれないからね。しかし親が決めたことはもう、絶対なのだよ。私たち部外者が何を言おうと覆すことができない。誰も彼女を救うことはできないだろうね」

そんなことが、ああ…。
あまりの絶望感に立ち直れそうにない。
かわいそうな輝子。
そうか…、昨日池の畔で泣いていたように見えたのは事実で、このことが原因だったのかと納得できる。
父親を恐れていたように思えた彼女の話しぶりで、口答えなどもってのほかなのだろう。
僕に何かできることはないのだろうか。
もし僕があの土地の教師としてすでに働いていたのなら、何かしら手立てを考えられたかもしれぬ。
重ね重ね時機の悪さを恨みたくなる。

それにしてもあの年齢で、いくら器量の良い娘と言ってもあまりの年齢差が気にならないとは、伊ケ谷氏と言う人物は大変な欲望の塊りではないか。

あのご子息の宗一郎君と最近親子の折り合いが悪いようなことを言っておられたが、もしやこのことが主な原因なのではないのか?
きっとそうに決まっている。自分よりも年下の少女が、継母になるのだ。
誰が考えても良い気分はしないはずだ。特に思春期の彼だ。伊ケ谷氏はなぜそのことに思い至らないのだろうか。

この縁談は伊ケ谷氏と輝子の家族が良い思いをするだけで、肝心の輝子と年の近い宗一郎君には何の実りも展望もないのでは…。

もしこの縁談がこのまま進展したとしたら、それを知りながらそこに僕は教師として赴任する羽目になるのか。
輝子もそうだが、僕にも地獄のような日々が待ち受けているだけではないか。
どうにか打開策がないか考えられないか。

「私としてもこういうのはあまり気持ちよく受け入れられる話ではないよ。しかし学校を作ってくださるということで、こちらとしては全く手も足も出ない状況だよ。成沢君も村へ赴任するとなったら、否が応でも伊ケ谷邸とは関わることになる。あまり気乗りしない話だろうが、もうあの人たちに君を紹介したし、他に推薦できる学生をこれから探す時間もそれほどないからね。とにかくこの件だけ目をつぶってやり過ごしてくれれば、やりがいのある仕事になると思う。よろしく頼むよ」

「先生…」

はあ~…結局いつの間にか押し切られているじゃないか。
こんな気持ちでまともに仕事ができるとは思えない。どんなに忘れようとしても、伊ケ谷氏を見るたびに思い出さざるをえないじゃないか。
教授も他人事だと思っていい加減なことを言う。
そうだ。僕の大事な将来まで、他人に決められてしまうのか?それもまた輝子の運命と同じく問題ではないか。
本当に先が思いやられる。
東京へ向かう汽車が待つ駅へ向かう。ますます重い足取りとなった。

乗り込んだ汽車の車窓から見える夏の陽は、夕方なのにまだ地平線からは高く、進んでも進んでもずっとついてきて僕らを眩しい眼差しで照らしていた。しかしこちらから近づこうとしても夕陽へは決して距離を縮めることは不可能なのだ。
それはまるで、この旅で突然僕の心を照らしてくれた輝子の非情なる運命が、手をどんなに伸ばしても彼女には絶対に届くことはないことを思い知らせているように。

そうして暗い思いを抱えたまま僕は、我が住む町、学生寮へと帰ってゆくのだった。
                            第6章へ続く


第1章はコチラ
https://note.com/soware/n/n929f8ababa57
                                    
第2章はコチラ
https://note.com/soware/n/nbe86df520d77

第3章はコチラ
https://note.com/soware/n/n16d7c672023f

第4章はコチラ
https://note.com/soware/n/n00060f4a6acd


今回もお読みくださりありがとうございました。
次回もまたご訪問いただければ幸いです。

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