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小説『水蜜桃の涙』

「第2章 美しき娘」

この章の登場人物:
成沢清之助・・・高等師範学校の最終学年に通う都会育ちの青年
谷口 倖造・・・高等師範学校の教授
伊ケ谷 治平・・・村の名主
中本・・・・・・・村長
謎の娘

「はあ…僕ですか。……え!?僕が?まさか、その中学校の教師に!?」

この教授、タヌキか!
何の相談もなく僕の将来を勝手に決めて、平気な顔して来週には一緒に故郷へ行けと言う。
いきなりだ!ひどすぎる。
僕だって将来は東京の学校教師で落ち着きたいと考えていたのだ。
友の石田も金森もできれば帝大まで進みたいと言っていた。
皆、それなりに望みや夢は持っている。
それなのに、なぜに僕が田舎の教師にならなければいけないのだ。

「君はだね、教授陣の間でもすこぶる評判のいい学生なんだよ。成績は常に上位。品行もさほど悪い噂を聞かないからね。私の教え子の中でも特に目をかけていたつもりだよ。
考えてもみたまえ。東京のあまたの教師の中に埋もれるよりも、田舎だが自らのその才を開花させこれまた優秀な教え子を見出し育て、ゆくゆくは大いなる国に貢献するほどの人物を輩出させたとすれば、君、世に名を上げられる機会が手にできるという訳だ。鶏口牛後と言うではないか」

教授はまだあってもないことをさも当たり前のように言い、僕を口説こうとしているな。
何たることよ。この僕がそのような幼稚な文句で誘いに乗るような男と思われているなんて!

「しかしですね、先生。これでも僕にも将来の夢というのがあって…」
「まあまあ、今気が乗らなくても、とにかく一度私の故郷を見に行ってみたまえ。とても美しいところでね。その景色を見るだけでも行く価値がある。たった一泊だ。それくらいは君の時間を使わせてもらっても無駄にはならないさ」


池が見渡せる土手に座り、額の汗を拭い、そよ風に心を微かに緩める。
まったく…。この教授には上手く言い包められてここまで来てしまったが、確かに来て損ではないな。
遠足が一泊の旅行になってしまいそれを楽しんだと思えばいいのだろうか。

「池の向こうの丘にもよく遊びに行ったものさ。秋は様々な木の実や果物が実って思う存分食し、貧しいがそれなりに楽しかったのだよ。子どもの頃っていうものはとにかく無邪気だからね。しかしそのうち、遊ぶだけでは物足りなくなって、もっと多くのことを学びたいのに結局村にはそれ以上のものがない。私はどうにか隣町へ進学できたが、希望する者が誰でも行けるという訳ではなかった。ところが今もまだ同じ状況が続いているというのは何とも無念でね」

教授の言いたいことはもっともなことで、僕としても理解できる。
学びを欲するのは、誰にも止められないものだ。
そして、今や女子教育だって新しき御代になり高等教育が進んでいる。この村にも今だって、教授のようにもっと学びたいと思っている者はいるだろうし、教授が懇願したことは、後々この土地の皆に喜ばれることだろう。

ついついこの村のことを思い為している中、池の畔をふと見ると誰か座っている人影が認められた。
どうやらまだ子どものようだ。遠目だが、あまり大きくはない体躯でそうとわかる。
いったいここで一人、何をしているのだろう。

と、こちらの気配に向こうも気づいたのか、ふっとこちらの方を振り向いたのだ。
その刹那、僕はその人物が子どもではないのでは、と思ってしまった。なぜか?

「ほほう…このあたりには珍しく器量のいいおなごだな」
教授も気づいたのか、その人物を見てつぶやいている。

そうなのだ。子どもだと思ったが、振り向いた顔を見ると、遠目でもその美しさが際立っていたのだ。
しかしその娘は、こちらを見るや驚いたのか慌てて立ち上がり、目のあたりを手で拭きつつ逃げるように走り去ってしまった。

「泣いていたようですね」
教授にも同意を求める。しかし教授はその娘のことはすでに関心を失ったようで、自分も立ち上がり、
「さあ、そろそろ村へ向かおうか」
と言って尻についた草を手ではたいている。

なんだなんだ、あっさりとしたものだな。教授くらいの年になると、あまり女性の美貌とか気にもしないものなのか。
僕はもう少しあの娘の顔をしっかり見たかったなと、去られたことが残念でならない。これまで勉強ばかりでほとんど女性の影がない人生なのだ。そろそろここらで、心許せる女性と出会いたいと思っているのだった。


夕方近くになり、やっと教授の実家に着いた。
到着するまでにもこの里山の風景を眺めたがやはり美しく、夏の草花も随所に咲きほこり、田んぼの苗はまだ植えたばかりでそれほど育っているわけではないが、行儀よく整列したようで見事であった。

すると先に家の中に入っていった教授がすぐに出てくるなり、
「成沢君。着いたばかりだが、到着前に中本村長から連絡があったようだ。話していた名主の家にさっそく二人とも呼ばれている。これからそっちに移動しよう」
と言って、荷物を置いていくよう促した。

「はあ…」

なんだか、話がとんとん拍子に進んでいやしないか?それも教授の思惑通りにだ。
あくまでも今回は、この土地の風景を眺めに僕は来たのだ。まだここの教師を引き受けることを承認したわけではない。
丸め込まれないようにじゅうぶん気を付けておかないと。

うわさの名主、伊ケ谷治平の屋敷はさすがに大きく、この村でかなりの権力を持っているようだと確信できた。
下働きの女性に案内され、座敷に通されると上座にはすでに中本村長らしき人物が座っていた。

「おお!谷口先生、帰ってこられたようですな。お帰りの所を休む間もなく呼び立てて申し訳なかった。こちらに座ってください」
村長が僕たちを手招きすると谷口先生が、
「村長、お招きいただきましてありがとうございます。成沢君、こちらがこの村の村長の中本さんだ」
と挨拶に次いで紹介をしてくれた。すると、村長のすぐ隣に座っていた男が立ち上がり、僕たちの方へ近づいてきた。

「やあ!谷口先生!来てくれましたね。今日はお帰りになったばかりだが、ぜひとも今後の展望などを聞きたくてお招きした次第です。…と、こちらは?」

きっとこの男が伊ケ谷治平なる人物なのだろう。初めて見る僕のことがやっと目の端に入った模様だ。
「初めまして。成沢清之助と申します」
挨拶しながら伊ケ谷氏を観察するに、年は40歳台後半といったところか。裕福だと見るからにわかる恰幅の良い体格をしている。

そこで、中本村長の横に腰を下ろした谷口教授が僕にも隣に座るよう促したので、あまり居心地がいいとは思わなかったが、仕方なく座ると、先ほどの女中が僕たちにも膳を運んできた。

「伊ケ谷さん、村長、紹介が遅れました。彼は成沢清之助君といいまして、我が校が誇る優秀な学生です。来年は卒業でして、おっしゃっておられた優秀な教師というのを彼に任せたいと思いましてね。本日まずはこの村を見てもらおうと連れてきたところです」
と、いきなり核心をついてしまった谷口教授に驚いた僕は教授の方をさっと振り向き、

「先生!僕はまだ正式に返事をしていませんよ!」
抗議の声をあげてしまった。

「まあまあ、君。そう力まんで、飲みながらでも話はできるから、まずは盃を取ってくれたまえ」
と伊ケ谷氏が話を割って入ってきてとっくりを僕の盃に傾けた。
そうして谷口教授も村長も僕があげた声を全く無視して、酒を酌み交わし始めてしまった。

これだから嫌なのだ!大人はこうやって、都合の悪い事をうやむやにしながら、自分たちの良いように事を進めていく。なんて横暴なのだ!
だめだ!このまま言い包められてしまわないよう、念を押しておかないといかん、…と思う間もなく、

「谷口先生、それから成沢君と言ったな。常々私もこの村には高等教育が必要だと思っていたのだ。せっかく実力があるのに、学ぶ機会がないからとその雄志を諦めるのはまことにもったいないことだからな。
恐らく今も埋もれている逸材がいるやもしれん。だから、今回の谷口先生と村長の頼みを引き受けたのだ。
私くらいだよ、この村でそれを実現できるのは。
だから金を出す代わりに、ちょっとばかり条件を出してもよかろうと思ってな。優秀な先生を招聘したかったのだよ。隣町にも劣らない、いやそれを超えるくらいの学校にできる人材が必要なのだ!」

伊ケ谷氏はすでに酒が入り、僕が反論しようとする前に、本心かどうかはわからないことを饒舌に語り出した。

「さすがは伊ケ谷さんですな。先見の明があられる。もう時代も変わって久しいではないですか。
庶民の教育の浸透が国を何より強く大きくしていくのですよ。お国のお偉方はまだまだわかってない。
田舎こそ人材の宝庫なのを!伊ケ谷さんのおかげで、我が村からもいずれ国を動かすような人物が輩出されるとなれば、伊ケ谷さんの功績も大きい。
勿論、お名前を学校名につけてもいいし、名誉校長になっていただいてもいいし、銅像を建ててもいいですな!」
と村長が言えば、
「おお!それはいいですね。ぜひとも実現させたいものですな」
と谷口教授。
アハハハ…と、三人で異常に盛り上がっている。これも酒が入っているからなのか。

本当に、情けない。
まだ実現もしていないことを、さも約束されたことのようにみんなが言い放っている。
そんなに簡単にうまくいくものではないのだ。教育と言うものは。
そのあたりは、谷口教授は理解しておられるはずなのに。
すべては教育者の質の良い教えとそれを享受するやる気のある子どもたちがいてこそだ。僕もある程度学んできたから知っているが、それらだけでなく国の制度と上手く合致しないと、机上の空論、絵にかいた餅に終わってしまう。

そのような大事な新しい教育の場に、教壇に立つのに、はたして僕のような者がふさわしいのか、期待されるだけの務めを果たせるのか?
初めて来たこの土地のことを何も知らない僕に、村民のあまりに大きな、幻想のような冀望きぼうを一身に担える覚悟があるのか?
下手すれば、期待を背負った子どもの未来をつぶす可能性だってあるのだ。
そこまでする恩義も義務も僕にはあるはずもない。

きっと明日は、みんなにその気は全くないことを確実に伝えなければ…。

そのようなことを一人考えながら慣れない酒をちびりちびりと口に含んでいると、いつの間にか昼間の疲れが残っていたのもあり眠ってしまったようだ。
気づいたら、そのまま伊ケ谷邸の座敷に横になっていた。
すでに夏の夜は、早くも明けようとしていた。
                           第3章へつづく

第1章はコチラをお読みください。

今回もお読みくださりありがとうございました。
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