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「求む!国のために働く真のリーダー~『会津武士道 侍たちは何のために生きたのか』~」

『会津武士道 侍たちは何のために生きたのか』 中村彰彦 著 (PHP研究所)                                                                                      2013.6読了

かつて放送されていたNHKの「BS歴史館」という番組で紹介された会津藩の初代藩主、保科正之のリーダーとしての人格や資質に惹かれ読んでみました。
まさに番組で紹介されたままの姿がそこにあったのです。
 
260年余もの長い間、天下泰平の社会と文治主義の政治を続けることが出来た徳川幕府のことを“パックス・トクガワーナ”と呼ぶらしいのですが、その礎を築いたのが保科正之の功績によるものであるのは間違いなさそうです。
 
保科正之は会津藩主でありながら、時の将軍・家綱の後見人として、亡くなる直前の三代目将軍・家光(義兄)から託され、事実上のNO.2となります。
しかしその地位に驕ることなく良きまつりごとを行うために、粛々と、そして次々とあらゆる業績をあげていきました。
 
まず人口増加に悩む江戸の町の治水のために、玉川上水を開削。
 
江戸の大半が焼け江戸城もほぼ焼けてしまった明暦の大火と呼ばれる大火事があったときです。
将軍・家綱の避難場所として、城外を主張する老中たちに反対し、天下の将軍が火事で外へ逃げ出しては幕府の権威に関わると、まだ焼けていなかった西の丸に避難を誘導する案を出しました。
 
またその際、幕府の米蔵を被災した難民に提供するという大胆なお触れを出したのです。
町火消がまだ存在しないこのころ、火消したちはほとんどが出払っていて、町は消火活動が出来ない状態でした。そこにこのお触れを出せば、難民が米蔵に殺到する際に消火活動もしてくれるという一石二鳥の策を思いついたのでした。
咄嗟の決断力に脱帽です。
 
家を失った町方に救援金、旗本御家人には作事料を与えることを即断します。
 
かなりの巨額の金が一気に動くことに難色を示す者もいましたが、「御金蔵はこういうときにこそ使うものだ」と、その後も復興資金として、広小路という火除け地を作ったり川に大橋をかけさせました。
大火事に驚き恐怖のあまり川へ飛び込み、溺れる人も大勢いたことを把握していたからです。
 
また復興しつつある江戸城で、天守閣を再建する案が持ち上がりましたが、これには「天守閣がそれほど役に立った例はない。それより町方の復興を優先するのが大事だ」と反対しました。
 
それから、そのころの幕閣には保科とともに優れた人材がそろっていましたが、彼らとともに保科も大きく関わった新たな制度を作りました。
 
1 末期養子の禁止の緩和
  当主が余命いくばくもない時期に、養子を連れてきて大名家の存続を安定させるというやり方を緩和しました。それまではそのやり方は禁止され、お家お取り潰しになり行き先をなくした浪人があふれ、世情が危ういものになっていました。いわば、危険分子を未前に防ぐ力ももつ制度なわけです。
 
2 大名証人制度の禁止
  参勤交代で江戸に赴くと、正室と長男は江戸屋敷に人質として置かれ国許には帰れませんでした。これは戦国時代から残る敵に対する疑心暗鬼からけん制するための制度でしたが、もう敵はいないのだし、大名が家族となかなか会えないのはさみしかろうという保科の人情的な考えから改められました。
 
3 殉死の禁止
  それまで殿様が亡くなると、忠臣は自らも死を選んでその苦痛を同じに味わうというのが忠義とされた悪習を変えました。せっかくの人材をなくす必要はないし、日本国が古くから政治・文化のお手本としてきた漢王朝ではそのような殉死は行っておらず、朱子学の観点からもそのような風習はなくしても構わないと、武家諸法度に反映させました。
 
 
それから、江戸だけでなく会津藩主としても素晴らしい業績をあげている。
 
「社倉制度」
米どころの会津です。社倉を作って豊作のときに備蓄しておいて、飢饉の年に貸し出し、次の年豊作なら二割の利子をつけて返してもらう。しかしその次の年も凶作なら返さなくてもよしという食糧備蓄制度。
 
「世界初の高齢者年金制度(国民年金制度)」
九十歳以上なら身分・男女関係なく一人一日玄米五合を終生与えられるという“一人扶持”の制度を作りました。本人が体が弱く取りに行けない場合は、代理人でも良しとしました。
 
「旅人の行き倒れを救済する救急医療制度」
行き倒れの人を見かけたら、とにかく医者に診せ、その費用は藩が持つ、というもの。まさに人道的政治です。
 
これらのお触れを奉行や配下のものが村々を廻り、領民にわかりやすく説明していました。掲示板に文書を掲げて終わりではなく、制度を確立させるためにきちんと説明をするところが素晴らしいです。
 
おかげで会津藩はほかのどこよりも、人口が大幅に増え栄えていったそうです。
このようなリーダーをその当時持つことが出来た会津藩と幕府は幸運でした。いや、この国にとって幸せだったのかもしれないですね。もし保科正之がいなかったら、今現在の日本はいったいどうなっていたでしょうか?
まったく違った世の中になっていたかもしれません。
そう言えるくらい大きな功績を残した人でした。
 
まさに「今いてほしいリーダー」と言えます。


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