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地方でのキャリア ~自分をいかして働く~

「起業」や「副業(複業)」、「フリーランス」や「NPO」という言葉がまだまだ身近でなかった2010年代に学生時代を過ごし、社会人になったわたし。今は新潟でフリーランスとして活動していますが、どんな経緯で今に至るのか。

単なるわたしの長い経歴のようでありながら、これからキャリアをスタートさせるひとや、地方で働くことに興味がある人、自分をいかして働きたいひとの、なにかの参考になればと思います。(目次ごとに、気になるところを読んでいただいてもよいかと!)

周りに理解されず苦しんだ学生時代


わたしが高校を卒業したのは、2015年で、当時わたしの通っていた新潟の田舎の中堅進学校(偏差値による区分けが適切かは別の話として…)では、県内の「国公立大学」に行くのが正義でした。そのなかで東京の私大に行ったわたしはあまり先生からよく思われていなかったのでした。

でも、既存の枠組みに囚われず、自我を持ち、負けん気の強かった当時のわたしは、「なんで学校という枠のなかでしか生きたことのない教師に、わたしの進路が間違っていると言われなければならないの?」と不思議に感じていたし、「お前らが想定できる職業になんて就かねぇよ」くらいに思っていました。(実際、誰も想定していなかった仕事に就いたと思う。)

ちなみにこの頃は、新潟という土地を客観視なんてできていなかったし、東京に特別憧れもなかったので、自分が「地方」と呼ばれる場所に住んでいるという自覚すらなかったと思います。なんとなく、大学は関東にしようかな、くらいの気持ちでした。


教育のしくみに違和感を持ち、それを学びたくて、教育学全般を学べる大学に進学しました。教授に恵まれ、楽しく研究に励み(詳細はこちら)、卒業も見えてきた頃。

当時(2015年~2019年)は過労死の問題が浮き彫りになっていくなど、私自身は働くことにいいイメージが持てずにいました。また、社会的にも「LIFE SHIFT」という本が出版されるなど「大企業に行けば幸せ」という価値観が揺らぎ始めていた頃だったと思います。でもそう感じていたのはほんの一部の人たちで、周りの友達たちはみんな就職活動や公務員試験のための勉強をしていました。

上記のように既存の教育のあり方に違和感を持っていたわたしは、当時「日本の教育を変えたい!」と本気で思っていたこともあり、就活サイトに載っているような大企業のなかには、社会を変えられる仕事はない(既存の仕組みを強化するような仕事ばかりだ)と思っていました。

そして、スーツで取り繕ったつまらない面接で、自分のことを知ってもらったり会社のことを知ったりするのは無理だと思っていたし、「自分をいかして生きる」「自分の仕事をつくる」なんて言葉たちにピンと来ていたので、もっと自分をいかせる・自分らしい仕事があるはずだ」と思っていました。


社会人0年目~1年目


そんなわたしは、大学4年生になる頃、就活以外の方法(詳細はこちら)で会社を探しました。今でも関わっている、株式会社アスノオトを見つけ、ここで働きたい!!!と強く思いました。求人を出していない、新卒なんてなおさら採ってくれるわけがないと知りつつも、働きたい旨を連絡しました。案の定、「就職」というかたちにはなりませんでしたが、インターンをさせてもらえることに。ここでわたしの社会人0年目がはじまりました。

ちょうど「さとのば大学」の立ち上げ時期で、「地域を旅しながら学ぶ大学」という新しい学びのかたちを社会に生み出す、というミッションに取り組み、全員がパラレルワーカーというかたちでそれぞれが自分らしい働き方を模索している、しかも完全リモートのチーム。2018年時点(コロナ前)ではかなり珍しい形態の会社だったと思います。

4年生になっても就活をしておらず就職先が決まっていないことを親が知り、泣きつかたこともありましたが、自分は間違っていないと思っていたので、特に就活らしいことはせずに、アスノオトでのインターンをしながら卒論を書いたりバイトをしたりする生活をしていました。

ベンチャー企業ではよくある感じ?の、誰も答えは持っておらず、教えてもらうというよりも「実践しながら」できることを増やすスタイルで、簡単なデザインスキルや、ファシリテーションスキルはこの頃から少しずつ身につけていきました。

その傍ら、片手で数えられるくらいの企業の話を聞きに行ったりもしましたが、どこもピンと来ず、特に春からの進路は決まっていませんでした。

大学を卒業する2カ月ほど前、アスノオトで契約社員として週3で働かせてもらえることになりました。でも、それだけだと食べていけないので、他の仕事も探すことに。当時知り合いの方が働いていたNPOでアシスタントを募集していると知り、連絡をし、業務委託で働かせていただけることに。

業務委託というのがなんなのか、当時ちゃんとは理解できていなかったと思いますが、半分会社員、半分個人事業主というかたちでわたしの社会人1年目がスタートしました。

なにができるかもよくわからない若者を雇っていただいたこと、とても感謝しています。

ちなみに、都会から地方に行くことが「都落ち」のように捉えられていた時代から、この頃には「Uターン」などの言葉が浸透し始めるなど、地方で働くことが「ちょっとかっこいい」というような風潮になりはじめていたように思います。


旅をしながら、双極性障害とともに生きる

納得して働ける、素敵だと思える大人の人たちと関われる環境・働き方を見つけられたことがうれしくて、楽しみつつも仕事に没頭していた社会人1年目。

今考えると新卒で2社に関わり、いろんな情報でつねに頭がいっぱいで、かなりマルチタスクになっていたんだと思いますが、秋頃から、天気が悪くなると布団から起き上がれない日が1,2週間続くようになり、仕事に波が出るように。

でもずっと体調が悪いというわけでもなく、びっくりするほど仕事がはかどることもありました。それがのちに双極性障害というものだと知りました。(2024年現在は、ほとんど症状が出ることはありません。)

仕事がリモートだったうえに、都内で家を借り引っ越すイメージがつかなかったり、仕事で関わる地域に行ってみたい気持ちもあったりしたので、家を借りずに友達の家に居候したり、ゲストハウスを転々としたり、全国を旅したりして暮らしました。

そして、コロナ禍になったこともあり、鬱々とした状態で東京の、当時は暗い雑居ビルに住んでいたので、その生活を続けるのは…ということで、知り合いの伝手で、福島県の南相馬市に移住することに。

復興を機にまちづくりに力を入れ、若い人たちがたくさん移住していたり、「さとのば大学」の拠点になったことで大学生も移住してきたりと、コロナ禍とは思えない充実した日々を送りました。

その後ご縁があって神奈川県葉山町に住んだり(当時の生活はこちら)、また南相馬に戻ったりして計3年ほど地方で暮らしました。といっても葉山は、少し移動すれば鎌倉や湘南など栄えた町も近く、地方というよりも都会のひとたちの別荘地でしたが。その間も躁と鬱を繰り返していました。

そして、2022年の終わり、双極性障害が悪化し、鬱の日が増え、このままではだめだということで休職し、療養のために新潟の実家に戻ることに。

体調の悪化が一番の理由ではありましたが、今考えると南相馬では、地方に住んでいると言っても、若者だけのコミュニティで暮らしている感覚が強く、もちろん地元の年配の方とも少しつながりはありましたが、その土地に「根差している」という感覚はあまり強くなかったのかもしれないなと、今になると思います。


Come back to NIIGATA! ~地元に戻る~

休職中は毎日、実家のこたつに横になって寝たり、ときどき動画をみたり、しまいにはやることがなさすぎてレゴブロックをしたり……学生時代は部活と勉強で休みなんてほとんどなかったし、大学の時もバイトなどなにかしら活動していて、こんなになにもすることがない時期は人生で初めてだったと思います。

でもなにか仕事はしたかったので、復職することも考えつつ、アルバイトを探しました。そのなかで、アルバイトではないけれど、プロジェクトマネージャーのような役割で手伝ってくれる人を探しているというデザイナーさんを紹介してもらいました。

わたしの地元である燕三条で、工場で出る廃材を使ったアップサイクル製品をつくるブランドをやっているということで、まずはそのお手伝いをすることに。その後、工場の自社ブランドや自社製品の開発やPRのお仕事も一緒にさせてもらえることになりました。


そして、健康になるために外で体を動かす仕事がしたい!と思い、農家のアルバイトを探しました。かなりフレックスな働き方の農家で雇ってもらえることになり、まずは3か月働いてみることに。野菜の苗とお米、そしてお餅をつくっている農家で、家族を中心としつつ季節ごとにパートのおじいちゃんやおばあちゃん、ママさんがいる農家。

パソコンと向き合う仕事ばかりだったわたしが農業に携わるなんて誰が思ったことでしょう…

実際、実家で栄養バランスのとれた食事になったこともあるとは思いますが、農家で働き始めて、毎朝決まった時間に起きて出勤し、日の光を浴びる生活をしていたら、鬱状態になることはなくなりました。

基本的には農作業ですが、わたしが広報やデザインの仕事ができるということで、農家の広報の仕事もさせてもらうようになりました。今はInstagramの運用や、お便りの発行などをしています。(鈴木農園 Instagramはこちら


そんな、地元新潟の「製造業」と「農業」という2大産業に関わるようになり、両親が築いてきた近所の人たちとのコミュニティもあり、新潟という土地にとてもつながりや愛着を感じるようになりました。

単純に面積の広い県でもあるので、言ったことのないエリアやお店も多く、開拓の余地があり、新潟めちゃくちゃ楽しいじゃん…となっています。

今は祖母が住んでいた長岡のはずれの方の家で家族で暮らしており、中心街はもともと住んでいた燕三条よりも栄えているので、ちょっと車で走れば基本的になんでもある、田舎のよさと便利さの兼ね備えた土地。東京までも便によっては1時間半くらいで行けるのです。

南相馬は仙台やいわきなどの街に出るのにも1時間以上かかり、東京までは下手すると5時間くらいかかるので、同じ地方と言えど土地によって全然違うなと思います。


さとのば大学の仕事も、業務委託というかたちで復職し、主に「さとのば大学の広報」「燕三条地域での商品開発・PR」「農家」の3つの柱で、完全にフリーランスとして、2024年からは活動するようになりました。


中学や高校の頃、周りの大人から理解されなかったわたしも、ちゃんと自分のやりたいことでお金をもらえるようになりました。「リモートで大学を立ち上げをしている」も聞く人からすればかなり意味不明だったと思いますが、「フリーランスでPRの仕事と農家の仕事をしている」もかなり意味不明だと思います。

もちろん体調のこと含め上手くいかないこともあったんだろうけれど(←あんまり覚えていない)、自分で選んできたから、まったく後悔のない人生を送れています。”自分をいかして働けている”感覚があります。就活しなきゃ!とか、大企業に行かなきゃ!とか思わずに、周りに流されずに自分の意志を貫いてよかった!


地方でのキャリアを考える

ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。「地方でキャリアをスタートする」「地方で自分の仕事をつくる」ということについて考えたい方、きっかけがほしい方!

わたしがモデレーターとして、「地方でのキャリアを考える」イベントを明日開催します。わたしと同じように、大学や新卒で地方に移住し、自分でキャリアを切り開いているすごく素敵なふたりのお話が聞けます。

イベントに参加できない方でも、さとのば大学は大学としても入学できますし、大学生の方向けのギャップイヤーコースや地域おこし協力隊の方向けのコースもあり、地方で自分の仕事をつくりたい人のための学びが詰まっていますので、ぜひチェックしてみてください!

つまり何が言いたいかというと…

実はこのnoteを書こうと思ったのは、このXの一連のポストを見たことがきっかけでした。この方のPodcastなども聞いていて、少し語気が強く感じてしまうこともあるのですが、特にキャリア観についてはこの方の考えで共感できること多くあり…!

わたしはあんまり論拠を持って話すのが得意ではないので、このnoteでわたしが言いたかったのはだいたいこんな感じのことかも、というのを、最後にこの方の言葉をお借りしてしてお伝えできればと。






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