痩せた雄鶏

友人に激推しされて、尾崎一雄の「痩せた雄鶏」を読んだ。友人は京大が大好きなので、京大現代文で出題された物語らしい。友人曰く、「家父長というかんじで大変よい。」(原文ママ)とのことなので、少し胸躍らせる。完全なフィクションの物語ではない私小説というジャンルが、エッセイ好きな友人には良かったのだろう。


読むと、かなり自分に自信がなく、なんなら自虐を感じさせる文章は読んでいて尾崎一雄への印象を良くさせる。島崎藤村が妻の死んだ後に姪っ子と近親姦をした話を「痩せた雄鶏」を読む直前にしていたせいで、そこと比較してしまい、家父長嫌いの私でも尾崎一雄は嫌いじゃないと思わされた。

どこか自信がなく病んでいる尾崎の文章は、同様に自信がなく病んでいる私と被ってふふんという気持ちにさえなった。そして、自信がないと言いながらも悪い旦那ではない、みたいなことを書いてのける自尊心でさえ親近感を得る。

この痩せた雄鶏である緒方を考えるときに、それなりにしっかりしていて良い体格である娘の結婚相手を思うとまたなんとも言えない味わいがある。緒方の前妻の時のやらかしを思ってもそうだ。
この緒方の、娘を嫁にやるときの感情には私が窺い知れない大きなあれそれがたくさん詰まっているのだろう。何にしても、面目や格好付けといった、あるいは道徳なのか当時の価値観なのかに邪魔をされて言えなかった本心を私小説で残し、遠回しに伝わるかもしれないという形にするのも悪くはなさそうだと思う。これは、少なくとも私が娘の立場なら読めて良かったと思いそう。


結局今の価値観では誉められた人間ではないというのはそれはそうなのだけど。つまらない男の意地っ張りと一蹴してしまうこともできてしまうけど。


家父長的バリバリの時代に家父長になった人間の、家父長としての立場の理想とそれに追いつかない自分自身という状態、これらに賛同できる男性はきっと多くあるだろう、

そういうプライドや信念が私には理解できなくても理想に追いつかない自分自身を自覚しているからこその苦しみは理解できる。
抜けてるところのある女だと思って多少見下ろしていた妻に指摘されて慌てて早口になることを自分で書ける人間は、なんだかかわいいなとさえ思う。

問題文はよく知らないけど、きっと「雄鳥精神は何か」とか、「小さい部屋」についてとか、この辺を聞かれるんやろなという目線で本を読むのも初めてで面白かった。


成長していくと考察や解釈を文字書き留めながら物語を読むということはないので、あらためて国語という教科がだいだいだーいすきだなと思った。国語のテキストを延々と回したいなとさえ思う。国語の授業も、深く物語を読んでいけて面白かった。高校時代の現代文のテストは難しくて、いろんな人が不平不満を漏らしていたけど、私はその難しさが面白くて、ずっとやっていたことを思い出した。


今でも文学部とかに進めば良かったのかなと感じることはないではないが、特にやりたくないことを進んで選ぶべきという私のプライドが今の人生を選択してしまったのでもう仕方がない。賢くて知識量がすごい人、と他人に一度でも思ってもらえたその自分像にしがみついて、でもその自分像に追いつけない自分。一体自分は何者なのか、「痩せた雄鶏」のように形容することさえできない。誰がどういう立場で、尾崎に親近感を得て「かわいい」なんてほざけるのか。恥いるばかり。

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