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相対化を意識すること

こんにちは,SGです.GWを前にまた緊急事態宣言が出てしまいました,皆様いかがお過ごしでしょうか.

今回は,相対化するという観点から,最近考えていることを書いてみたいと思います.

なぜこのようなことを考えたかというと,ネット上などで文系科目は役に立たないとか金にならないものは要らないという様な意見をよく目にすることがきっかけです.また,リアルの友達にも暗記する必要などない,なぜなら全部検索すれば出てくるからだという様な考えを持つ人が複数います.

私は理系ながらこのようなとらえ方は誤っていると思っています.そしてそのキーワードは相対化です.

まず,相対化とはなんでしょうか.相対の反対は絶対です.しかしこれだけだと多少わかりづらいかもしれません.

そこで成績の例がわかりやすいので書いてみます.相対評価の成績というのは,ある授業を受講している人の中での出来具合を見てつけられる成績のことです.つまり,ある評価を得る人の人数は決まっていて,その中での出来具合順に定まっていく形になります.一方,絶対評価というのは,ある基準があらかじめ決まっていてそれと比較することで成績が決まるというものです.極論を言えば,全員が最高水準の評価を得ることもあり得ます.

成績の例を出しましたが,別に成績の決め方についての議論をするわけではありません.まず提起したいのはこの世に絶対的なことはあるかということです.

これはなかなか抽象的で難しい問いですが,私の考えでは絶対的なものはありません.

これは言い換えれば,アプリオリなものが存在しないということです.アプリオリというのは,とても簡単に言えば疑う必要がない自明のことです.すなわち証明なしに認めてもよい事実ともいえます.それは存在しないと考えるということです.

具体的に言えば,私たちの脳みそが電極に浸かっていて,そこで見させられている夢を現実世界と認識しているという思考実験や,世界は5分前に始まったのだ(それ以前の記憶は埋め込まれたものだ)という思考実験は否定されません.このような認識を繰り返していけば,この世で絶対的に認められるものなどないと考えられます(異論はあります).

以上のことから絶対的なものはないと認めることにします.するとすべての物事は相対的なものであることになります.つまり,物事について絶対的な基準が本来的に存在するのではなく,暫定的な相対性のなかで判断されているということです.

これを意識している人は意外と少ないように思います.常識というものがその典型です.「常識的にあり得ない」といった発言はしばしば見受けられますが,その常識というのもその人の認識している「世界」の中ではそれが当たり前であるというだけの話です.もちろんある時期,ある地域ではその「世界」が比較的似通る傾向があるので常識というものは誕生しますが,それは決して本来的に絶対なものではないのです.

例えば倫理的な議論で,人を殺すのは絶対悪であるという議論もありますが,それすら絶対的ではありません.古来から,仲間を守るために敵を殺すということは正当化されてきました.また,仲間であっても家族を守るためなら,自分自身を守るためなら,殺していけないと言い切ることは難しいです.さらに動物は殺してよくて,人間はだめだということについて論理的に示すことはできません.

さてここまで物事が相対的であるということを述べてきましたが,それが一体何になるのかということをお思いの方もいると思います.ですのでこれから核心に入ります.

それは,幸せに生きるためには相対化を意識することが必要ではないかということです.

つまり,私たちの生きる社会,人生も相対的なものによって規定されている部分が大きいということに気づくべきだということです.

大きいところで言えば,国という制度もそうですし,文化というものもそう.ありとあらゆるものは,相対的なのです.非常に抽象度を下げた例で行くと,校則がわかりやすいです.

化粧禁止にスカート丈,頭髪など...しかも学校によって違います.義務教育の範囲でこれが存在しているということは,現代日本に生まれ育つとこれらが強制されるということです.しかし,この基準はあまりに明らかに絶対的ではないですね.法律と比較すればよくわかります.少なくとも大人にこれを当てはめたなら権利を不当に制限しているという誹りはまぬかれようがないでしょう.

このように相対的であることを理解したうえでポイントとなるのは,どうして校則という制度がおかしい可能性があるということに気づき,それを論理的に説明できるのかということです.それは法律という基準(もちろんこれも相対的ですが)を知っているからです.他人に迷惑をかけない範囲では自由を追求できる(ことが認められている)ということを何らかの方法で知っているからです.もし,そのような知識を持たなかったら,その校則をただ唯々諾々と受け入れるしかありません.

このように知識というものがなければ,人は相対化を行うことができません.言い換えれば,自分が知っていること(=自分の「世界」に含まれていること)以外の可能性は無自覚的に排除されるのです.

無自覚的に排除されても,それはそれでいいではないかという議論も可能です.ですが,それは本当でしょうか.

私たちはどうしても,偏った視点から物事をとらえがちです.そしてともするとそれを絶対的だと考えます.それによって様々な惨禍が過去に起きてきました.すべての文明は盛者必衰という言葉に当てはまるように生まれては消えることを繰り返してきました.

これらの知識を知ることによって,現代社会を相対化することはもちろん可能です.そして,過去の人類の失敗に学んで繰り返さないようにするということが(少なくともその確率を上げることが)可能です.

逆に,過去のほうが優れていたととらえられる点を見つけ出すこともできます.過去にはもちろん現代と異なった常識や文化,生き方があったわけですから相対的にみることでそのベターだった点を受け入れることができます.これはより現代社会をよくすること,自分の生をよくすることにつながるでしょう.

ここまでで相対化には知識が必要なことがわかりました.ではその知識はどこで身につくかといえば,それはその人の経験によるわけです.もちろんこれは勉強だけであるはずがありません.すべての行動からは何かしらの経験が生まれるのですから.

一方で文系的な勉強が不可欠なことも事実だといえるわけです.なぜなら過去に起こったことを含め,多くの出来事をすべて体験するのは不可能だからです.書物などの記録をもとに知識を身に着けていくことがなくては圧倒的に知識が不足してしまいます.

個々の出来事に関する知識は一見,今現在に役に立たないかもしれません.しかしその背後にある様々な関係には普遍的なものが多くあります.古文や漢文からも分かる通り,昔から人間は似たようなことに悩んだり喜んだりしていることがあるものです.その時代特有の背景や文化を踏まえたうえで抽象化してみればいくらでも今現在に応用可能なのです.

以上いろいろと述べてきましたのでここまででまとめます.

世の中に絶対的なものはなくすべてが相対的である.相対化して物事をとらえることは,よりよい生につながる.相対化のためには,過去の知識の蓄積を有効活用することが大切で,そのための勉強が必要である.

要約すれば以上のようになります.

知識を蓄えるのはいらない.なぜならググればよいからだ,というような主張は浅はかです.なぜなら,自分が身に着けていない知識は相対化するために抽象化して応用することができないからです.

クイズの正解なら,調べればいくらでもわかります.しかし,今現在の問題に気付いたり,それに対処する方法を思考するときには,具体的にどの事例を応用すればいいのかなどということがわかるわけがありません.過去に知っていることを抽象化して結びつける能力(地頭ともいう)がとても重要であることはいわずもがなですが,その前提となる知識はあらかじめたくさんあればあるほどいいということです.

いかがでしたでしょうか.最後に毎度おなじみラグビー情報です.われらがサントリーサンゴリアスは,NECグリーンロケッツを下し,無事8強入りを決めました.大差はつきましたが,後半NECが怒涛の連続トライを挙げるなど盛り上がる試合展開でした.最後までプライドをもって戦うカッコよさみたいなものを改めて感じるような試合で,NECを応援したくなってしまうほどでした.サントリーファンとしては,勝ちに驕らず問題点はきっちり修正して次戦の勝利を期待したいと思います.

ではまた次の記事でお会いしましょう.


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