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共感とはありがたき悟りなり

黒猫だ。冬日の当たるアスファルトの上に座り、ふさふさとした毛をなびかせ、透き通ったブルーアイズをこちらに向けている。
 確か、あの手の獣は魔女の手下だったのではないか。ということは、魔法をかけられるはず。それが無理でも、せめてこの窮状をなんとかしてくれるよう、魔女に口添えぐらいはしてくれるのではないか。猫の手も借りたいとはよく言ったものだ。その黒い手をどうか私に貸しておくれ。
 柔彦は、懇願の眼差しを黒猫に向けた。猫は無言である。当たり前か。
 あほらしい。一刻も争う状況で、貴重な時間を、愚かなことに使ってしまったものだ。
 柔彦は舌打ちをして、スマホの画面を再び眺めた。
「先輩、やばいです。課長怒ってます。例のプレゼンの件、資料もパワポもなっとらんと叫んでます(笑)」
 なんで、(笑)なんだよ。あああ、やっぱりそうだよなあ。グーグル先生に出してもらった資料を適当にコピペしただけだからなあ。これから10分でなんとかしないと。この寒風吹きすさぶ路上で、スマホという武器のみで、とにかくなんとか…。

 「無理だあ」世界の果てで、ひとり柔彦は叫んだ。

 ほんの2週間前までは余裕のはずだった。あれ?何に使ったか、尊い時間を。誰にでも平等に与えられる天の恵みを。脳内アーカイブを必死に検索するも、何一つヒットしない。
 ニャアという声が聞こえた。思索にふけるあまりに忘れていた存在が、主張している。
 「なんとうらやましいことよ、ニャア様。」勝手に名付けて、柔彦は話しかけた。
 「お前様は自由で、怒髪天をつく上司も、小馬鹿にしてせせら笑う後輩もいないのだろう。あああ、私も猫になりたい」柔彦は、顔を手で覆った。
「…そんなに、猫がええのん?」
 そう、猫がええのよ…って誰?
 柔彦は周りを見渡すが、黒スーツの眼鏡男子が、勤勉の権化のごとく、颯爽と過ぎ去るのみであった。残るは、黒猫一匹である。
「あれ?私いつの間に、猫語が使えるようになったんでしょうか?」
「お望みどおりに、猫になれたからやんか」 
  猫に?自分が?信じるには愚かすぎる事態である。やはり最近の過労が原因か?・・・というほど働かなかったゆえの、現状なのであるが。
「おめでとう。今日から自由の身やで」
「え?あ、私、猫になったんですか?」
確認は、ビジネスパーソンの基本である。
「はい、猫ちゃん」ニャア様は答えた。
「それは、困ります。一刻も早く仕事に戻らねば、私クビになりますよ、ニャア様」
「猫は仕事なんかしなくてええんよ。その辺のゴミ箱あさるか、かわいい声を出して、付近の住民の皆様からお情けを頂戴するか、はたまたネズミを捕まえるか。そうして生きていくんよ。プレゼンせんでもいいねんで」
 それはよかった。いや、よくはない。よくはないが、万が一現状を受け入れるとして、譲れないことがある。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
「ニャア様は、夜どこでお眠りですか?」
「私の場合は、モテ猫ですから、あちらこちらに、毛布を置いてもらったり、小屋を作ってもらったりしてるんよ。そこは、あんたもがんばらんと、その辺の道で寝るしかないわねえ」
「イヤだあー。テン@ールの枕がないのに、寝るのはイヤだあ。帰るよう」
 柔彦は泣こうとしたが、涙がうまく出なかった。顔を拭おうとした手が黒い毛に覆われているのが見えて、ギャアと叫んだ。
「猫になってる、僕猫になってるよ」
「お望みどおりにね」とニャア様は答えた。「ごめんなさい。戻してください、ニャア様。愚かでした。自由、なめてました。サラリーマン最高。お給料万歳!四畳半一間にテン@ールの暮らし天国。どうか、ニャア様」
「それは、わたしの力ではなんとも。お察しのとおり、魔女の手下でしかないからねえ。魔女様に聞いてみんとなあ。Cannon様どうする?」
「せやなあ。どうしようかしらねえ」とニャア様は一人芝居を始めた。
 この小芝居から察するに、どうやらニャア様の本性は魔女だったようだ。驚きと苛立ちを覚えつつも、弱い立場では強く言えない。
「お願いします。Cannonさま。心を入れ替えますから」
「猫の大変さ、わかったん?」
「はい、身にしみました。」
「そやろ。よそのいいとこばっかり見るからなあ。あ、待ち合わせの時間やわ。いい暇つぶしになったわ、ありがとう。ほなね」とCannon様が言うなり、白い煙が立ち込めた。
 気がつけば、柔彦は薄だいだい色の手でスマホを握り、ただ一人立っていた。

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