共感的理解とは、相手の風景をながめようとするもの
兵庫の相生に月1回〜3回ほど行っている。
高校のキャンパスカウンセリングをしに行くのである。
相生市は兵庫の西の方にあり、海に面していて、以前アスファルトから生える「ど根性大根」で有名になったところである。
大好きな海を眺めることができるのも、相生に行く楽しみの1つである。
海を眺めていて回れ右をすると、当たり前だけれど、海は見えない。
そのかわりに山が見える。
もしも向かい合う相手が海を見ていて、「海がきれいやなあ」とつぶやいても、「何言ってるのん?海なんてないよ。山があるだけやん」となる。
自分には山が見え、海が見えないからである。
そんな当たり前のことが、コミュニケーションでもおきてしまう。
「パンが買えなくて、つらいんです」
「パンが買えないなら、お菓子を買えばいいじゃない」
というような、食い違いが起こるのだ。
支援を受ける立場にあって、このようなことを言われたら、たまったものではない。
共感的理解しようとする態度が欠けているのである。
共感的理解をするとは、相手が見ている風景を共に見よう、感じようとするものなのだ。
しかし、簡単なことではない。
「つらい」と話すその人がすむ、こころの世界。
相手の目の前に広がる風景を感じようとしなければ、相手の本当に望む支援にはつながらない。
支援者の自己満足にすぎない支援が続くだけである。
相手のためだと思う支援が果たして、ご本人にとってどうなのか?どんな風に受け止められているのか?
わかるわけはないものを、感じようとすることが、真の支援につながるのだ。
山を見ながら、海を感じようとするのである。
難しくて楽しくて、苦しいことである。
ど根性を出しても、なんの役にも立たない。
共感的理解は根性ではなく、こころを使うものだから。
でも、苦労した末に、ともにながめる海は最高である。きっと。
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