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偶然をただの偶然にしない

河合隼雄という人を、こころの師としてあがめている。

どれぐらいあがめているかというと、ロジャーズ(心理業界では有名な臨床心理学者)の信奉者をロジェリアンと呼び、ユング(とっても有名な精神科医・心理学者)のそれをユンギアンと呼ぶのにならって、自らを「カワイアン」とよぶぐらいのものである。

河合先生は、世界に誇る日本の代表的な心理学者で、文化庁長官時代にも多くの功績を残された。

しかも、兵庫出身で、関西弁を駆使する、ユーモリストでもある。そこが、関西のものとしては、たまらなく魅力的なのである。


ずいぶん前、ただひたすら待機する仕事を受けたことがあった。希望者があれば、カウンセリングをするのだが、その日は、たまたま希望者がなく、丸一日待つことが仕事だった。

その頃はパソコンも大きい時代で、持ち運びをしていなかったわたしは、持参した河合隼雄先生の本をひたすら読み続けた。

たまたま、講演集だったので、それはまるで、ひとり河合先生の講義を聴いているような、不思議な時間だった。

そして、翌日(おそらくだけど)、まさにその日が、河合先生が亡くなった日だと知った。河合先生は、倒れられた後、長いあいだ意識不明状態だったのだ。


とても不思議な偶然に、なんともいえない気持ちになったことを、今でも鮮やかに思い出す。

ナマ河合先生を、講演やパーティーでチラリとお見かけしたぐらいの、一方的信奉者のわたしにまで、河合先生は、生々しく教えを与えてくださったのだ。そう思えて、感謝の気持ちと、さびしい気持ちと、悲しみとが入り混じった。


毎年、所属する研究会の講座でカウンセリングに関連する講義を3回ほどしている。

同じくカワイアンである、夫と散歩中に、河合先生の名著「無意識の構造」の話が出て、ふと読み返したくなった。

講義にも役立つであろうという気持ちもあったし、長らく河合先生の本を読んでいなかったからでもあった。カワイアンの風上にもおけない奴としての汚名返上もしなくてはなるまい。


久しぶりに読む「無意識の構造」はやはりすばらしく、何度読んでも発見があり、感動がある。

今回あらためて、自分の立場を守ろうとしない、これ以上書いたら、「非科学的」と言われるのではないかという、ギリギリセーフ(もしかしたら、当時はアウトかも)という、ロックな精神にも、こころ打たれたのであった。

感動覚めやらぬところに、やってきたのが、「河合隼雄財団」からのツイートであった。河合先生のことを紹介する文章が日経オンラインに載るというお知らせである。

カワイアンとしてまたまた情けないことに、この財団の存在も知らず、当然フォロワー(読者登録者)でもないのに、流れ着いたこのつぶやき。しかも、まさにこのとき。

これはもう、ただの偶然ではない。

そう確信したのであった。


河合隼雄先生は、先述の精神科医ユング派に属している。そのユングが提唱した、「共時性」というものがある。

この共時性こそが、偶然の一致には意味があるのだよ、ということである(ざっくり言えば)。

いやいや、ただの偶然だよと、一笑に付すことも可能であるが、それは大変もったいないことである。そこに自分の腑に落ちるような意味を見出すことは、人生に大きな影響を与える、すばらしいことなのだ。

この世からいなくなってもなお、河合先生は、共時性のすばらしさを体験とともに教えてくださったのだ。

もっと学び、もっとこころのことを伝えなさい。

と、励ましてくださっている。

そう思えてならず、こころに感謝の涙がポロポロ流れた。(実際には泣いてないです。残念)



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