寄り添うとはいらない力を抜くこと
3月19日、20日と福岡の博多に行った。
仕事ではない。前回連れ合いの仕事に便乗して、京都へ旅に出たが、今回も少し似ている。連れ合いが滋賀から久留米へと連続の出張の仕事に行くのに、後から追いかけたのだ。
京都と違うのは目的があること。
連れ合いが福岡で、ある人たちと会う算段をしていたのを知ったからだ。その方々は、わたしが敬愛してやまない、カウンセリングにおける、こころの師たちであった。
カール・ロジャースの直弟子で、村山正治、尚子ご夫妻である。
ロジャースは資格も作らず、自分の名前を冠する施設も組織も作らず、パーソンセンタードアプローチを打ち立てた人である。
本人さんに力があるのだよ、だから本人さんが力が発揮できるような態度を支援者が持てば、おのずと人は回復し成長するのだ。
とロジャースさんは、教えてくれた。わたしのカウンセリングにおける、バックボーンの教えである。
ロジャースさんが神的存在なら、村山夫妻は、神の子キリストさまみたいなもんである。
会うのは、およそ16年ぶり。スケジュール上、難しいといったんあきらめていたのだけれど、電話で尚子先生のお声を聴くと、もう会いたくて会いたくてたまらなくなった。
遠距離恋愛中の彼女みたいになった自分が笑えてしまう。詳しくスケジュールを連れ合いから聞くと、行けないことはないことがわかり、急遽お会いしに行ったのだ。
居酒屋で、4人で話し込むこと約3時間半、あっという間だけど、十分なひとときだった。
神の子たちはざっくばらんで、対等で自由だった。わたしは言いたいことを言い、聴いてもらい、共感してもらい、聴き、共感し・・・の無限ループである。
傾聴とか、寄り添うという言葉は最近とみに使われるようになったけれど、実践は難しい。一生懸命聴こうとすると、必死になって、いらない力が入ってしまう。その場に、そして相手に圧がかかり、人はありのままでいられなくなるのだ。
情熱にあふれているのに、あっさりしていて、冷たくもない。しかも気がつけば、傍らにいてくれる、さりげなさ。なんで、あんなに力が抜けているのだろうか。
そんな業が可能なのだと、正治先生と尚子先生は身をもって教えてくれた。いや、やはり神の子だな。そして真の神の子は、えらそうじゃない。
これは本を読んでも、学べない。きっと。経験という貴重な学びを得て、なんとしてでも、受け継いでいきたいという無謀な思いを今携えている。経験したものの義務だから。
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