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一週遅れの映画評:『魔女がいっぱい』はロバート・ゼメキス版『天気の子』である。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『魔女がいっぱい』です。

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 「一週遅れ」って言ってるぐらいだから、それは当然「ネタバレはあるぞ」ってことなんだけど今回の『魔女がいっぱい』に関してはマジで最後の部分に言及するから普段以上に警告しておきますね。いまからネタバレをします。
 
 とはいえまずはその前フリなんだけど、この『魔女がいっぱい』って「描かれていない部分」を想像することが求められている作品で。
 まず世界には魔女がいる、そして魔女は子供が大嫌いで特に子供の匂いが耐えがたい悪臭に感じる(想像しただけで「オエッ」って軽くえずくぐらいに)。だから魔法の薬を混ぜたお菓子で子供をニワトリとかの動物に変えてしまう!っていう恐ろしい生物……って設定なのね。
 
 で、その魔女に目をつけられた主人公の男の子。彼は両親を亡くして母方の祖母と暮らしているのだけど、実はその祖母も魔女に狙われた経験があって、その危険性を知る祖母は慌てて安全そうな超一流ホテルへ逃げることを選ぶ。しかしそこでは年に一度の魔女集会がたまたま開催されていて、主人公たちは図らずも魔女のリーダーである大魔女と直接対決することになる、というのがあらすじ。
 
 この作品、1968年の設定なんだけど、えーと確か映画の『グリーンブック』が1964年の設定で、ついでに言うとジム・クロウ法が廃止されたのも1964年。それからわずか4年しかたっていない。つまりまだまだ「黒人差別」が色濃く残っている時代なわけなんですよ。で主人公と祖母は思いっきりアフリカ系アメリカで、だからホテルに着いたときポーターとかベルボーイに(当然のようにその従業員たちもアフリカ系の容姿で)「どういったご用件ですか?」とか聞かれてしまうの。ホテルの前で大荷物を持っているのに!
 つまりは「この高級ホテルに黒人の老婆と子供が宿泊するはずがない」っていう当時の常識が濃くあって、それがものすごくサラッと描かれている。
 
 それでね、主人公がこのホテルでイギリス人のデブのガキと出会うんだけど、そいつが気さくに……というよりも本当にごく普通の感じで主人公に話しかけたりしてきて、で主人公はそれに軽く引いたりしてんの。だけどそのイギリス人が魔女によってネズミに変えられて叩き潰されそうになるのを「なんとかしなくちゃ!」って自分の危険も省みずに助けようとするのね。
 これってさ主人公は「黒人である僕に、マジでなんの特別なことでもなく話しかけてくる白人」って存在が、あまりにも知ってる常識と違い過ぎるからビビって引いちゃって、でも間違いなくそれは主人公にとって嬉しいことだったから、出会ってまだ数時間しかたってない彼のために命が賭けれるくらいの友情を感じているのよ。
 
 そういう「明確には描かれていない」いわゆる”匂わせ”ぐらいの表現をちゃんと拾えると、この『魔女がいっぱい』ってすごく厚みのある話をしているのがわかるのね。
 
 でここからホントにネタバレ入っていくからね?
 
 
 
 魔女集会で大魔女が「1滴飲ませるだけで相手をネズミに変える薬」を配ると同時に、お菓子屋の開店資金を魔女たちに渡して「全子供ネズミ化計画を始動する!」的な話をするのよ。で、その薬を飲まされてネズミに変えられてしまった主人公とイギリス人のガキんちょ、あと実は主人公の飼っていたハツカネズミも数か月前にネズミに変えられた女の子だっていうことが判明して、その3匹でその計画を止めようとする。
 その方法が「そのネズミにする薬を盗んで、魔女たちの会食で出るスープに混ぜてあいつらをネズミにしてやろう!」作戦で、ネズミに変えられてしまったからこそ薬の盗みに行けるし厨房にも忍び込める……敵によって姿が変えられたけど、その力を利用して敵の武器を使って倒す。つまりは『仮面ライダー』的な世界が広がるわけ(そもそもこういったタイプの話だと、そういう展開に当然なるんだけどね)。
 
 それで紆余曲折の末、大魔女を倒す。そして彼女の持っていたネズミに変える薬と、配る予定だった数十軒ぶんの開店資金を全部奪って、さらには大魔女の持っていた魔女の住所録も手に入れて「これを利用して世界中の魔女を全部ネズミに変えてやるんだ!」で話が終わるんだけど……。
 
 見た人は言いたいことわかるだろうけど、ここに「普通の話だったら出てくる展開」が吹っ飛ばされてるのよ。
 
 つまりね、主人公たち3匹は「ネズミのまま」なの!
 
 もう魔女の住所録と一緒に薬の製法が見つかって「これなら解毒できる」とかになると思ってたからめちゃくちゃビックリしちゃって……そこ含めて「不可逆な改造」を施される『仮面ライダー』感が増してるんだけど。
 でもね、この完璧なハッピーエンドになりきらない感じが私はすごく良いと思っていて。その理由は3つあるのだけど。
 
 一つ目は、主人公の両親が死んでるって最初に言ったじゃない?それってもうホントに作中の数か月前の話で、だから主人公はめちゃくちゃ落ち込んでるのよ。それに対して祖母は明るく振る舞って、なんとか気持ちを取り戻させようとしつつ「起きてしまったことは仕方ない」って言う。
 でもさー、主人公にとっての母親って当然のようにこの祖母にとっての「娘」なわけで、その娘の死を……それもね親の死に悲しんでる主人公に母の写真を見せて「これは私の娘よ」って、こう「あなたの悲しみは理解できる」って意味で言うんだけど、その写真が恐らく「大学の卒業写真」なんですよ!わかる?1968年に黒人女性が大学を卒業しているって意味が!もうめちゃくちゃに優秀で、優秀なだけでは全然足りなくて死ぬほどの苦労があったに違いない、そうやって生きてきて子供もできて……って時に死んだ娘を「起きてしまったことは仕方ない」って言える強靭さと達観ってものすごくて。
 これ奴隷解放宣言がいつだっけ。1863年か。だからこの祖母が何歳かわからないけど恐らくは彼女の母親、は違うか、でもおばあちゃんぐらいはそれ以前の人である可能性が高いじゃない?だからそういった生まれの中で得た「起きてしまったことは仕方ない」って態度の強さと、それでも抗い続けたからこそ「黒人女性が最高級ホテルに泊まれる」世界がやってきた。
 だから「ネズミになったままこれからも魔女と戦う」って、その強さと抵抗が間違いなく引き継がれているということなんです。
 
 二つ目が魔女の存在で、この作品の魔女は髪の毛がなくて頭はツルツル、口は耳まで裂けるよう日開き、手はかぎ爪の生えた指が3本あるだけ(妖怪人間のベロみたいな感じ)、足は全部の指が鉈で切り落とされたみたいに丸くて平坦。だからずっとカツラを被って頭が被れてめちゃくちゃ痒いし、化粧で口を、指は手袋をして隠している。周りに魔女しかいない集会のときだけ、カツラを外して手袋も靴も脱いでようやく一息つける……そんな風に描写されてるのね。
 つまり魔女とは異形で、それを隠して人間の社会に潜んでいる存在で……それって魔女自体は強いかもしれないけど、それとは別にその姿が見られたら迫害されてしまう、言ってしまえば「被差別者」の立場でもあるわけ。それは最初話した「描かれていない部分」がここにも当然あって、だから魔女は魔女で彼女たち自身の生を懸命に生きてる。だから「全子供ネズミ化計画」も「全魔女ネズミ化計画」と本質的には変わらない。
 世界の覇権を取り合うっていうか「勝ったほうが正しい」になってしまうこの戦いにおいて「異形である魔女」と戦うのは「異形であるネズミ」のままでなければいけない!というのはすっごく誠実な話だと思う。
 
 それで最後は、うーん「この終わりのままでいこう!」がいつ決まったのかはわからないけど(実際原作もネズミのままだしね)……「変わってしまった世界のまま生きる」って、ものすごくいまのコロナ禍後の世界への向き合い方として、2020年にやることで意味が出る映画だな、と。それを子供向け作品で「世界は変わっても、そこで楽しく前向きに生きてく方法はある」って終わりは、なんかシンプルに感動的でした。
 
 あとあれだね、そういった話の終わりとしてやっぱ『天気の子』と並べて観るとすごく良い作品だと思う。同じ「起きてしまったことは仕方ない」「変わってしまった世界のまま生きる」という終わりをどう演出して、どうまとめるか……というところにアメリカ/日本、実写/アニメ、キッズ/ティーンっていう比較軸をいくらでも打ち込めるから、考え甲斐のある対比ができるんじゃないかな。

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 次回は『新解釈・三國志』か『天外者』の二択なんだけど……福田雄一はもう今年『今日俺』で語り尽くした気がするので、『天外者』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの10分ぐらいからです。


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