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長編小説「平壌へ至る道」(111)

 彼と対峙する民族の太陽はそして、およそ信じられない一言を続けた。
「お願いだ」
 部屋の隅の兵士の一人が、微かに動いた。彼もまた自分の耳を疑ったのだろう。
 芝居か本音か分らない台詞。一旦弱音を吐いて自由な意見とやらを性別年齢社会的地位に関係なく広く集め、一定期間を経て突如、政権に批判的な提案を具申してきた者を一網打尽に処刑するのは、この首領が手本としている毛沢東の得意技だった。
 次の自分の一言が、自らの寿命を決めるのだ。
 再び足に震えが走るのを何とか意識しないように努めながら、大佐はゆっくりと息を吸い、答えた。殺すならもう殺せ。
「首領閣下は今でも我が人民の模範となるべき父であり、指導者です。その手紙に何が書かれているか、私は噂を仄聞しているにしか過ぎませんが、その情報がもし正しいものだとするならば、手紙が示す度量を首領閣下がお示しになることで、閣下への人民の尊敬の念はなお一層高まることになる、と僭越ながら思料致します」
 大佐としてはこれが精一杯の回答だった。
「分った」老人は肩を落とした。
「ユーラにはこれから釘を刺しておく、あいつは直ぐに暴走するからな」
 歴史の捏造は北朝鮮が米ドルの偽造と同じぐらい得意とするものだが、日本で言えば富士山にあたる霊峰、白頭山で生まれたとされる金日成の息子、金正日は、現実にはロシアのハバロフスクで生誕した。伝説の抗日パルチザンである父が戦前ロシア領内で活動していたという経歴が消されている以上、金正日がそこで生まれたというのは公式に認められない話であり、彼をロシア式幼名であるユーラとおおぴっらに呼ぶことは、即刻処刑の対象となることを意味した。その例外はこの国には一人しか存在しない。
「戻ってよい」
 安は深く一礼し、部屋を出た。外に待機していた衛兵たちは、感情が表情や動作に出ないよう厳しく訓練されているはずだが、その時ばかりは少し瞳孔が開いた。
 この生贄が、入った時と同じ状態で部屋を出てくるとは思っていなかったのだろう。
 民族の父、金日成将軍は確かにその度量を示した。三十分後、平壌防御司令部にある自分のホームグランドに戻ってきた男は、部屋はここではありません、と待機していた兵士に最上階へと案内された。
 安サムチョル大佐は、安サムチョル大将になっていた。
 
「この件は誰に対しても不問に付す。異論は受け付けん」
 特にこの数年、自分の意向を無視し、横暴に振舞ってきた後継者たる息子に対して、将軍は久しぶりに父としての威信を見せつけるように厳命した。
「承知しました」
 頬を膨らませながら部屋を大股で出て行った金正日の背中を見ながら、建国の英雄は椅子に深く沈んだ。俺が何をしたというのか?
 日帝に搾取され、ソ連に乗っ取られ、中国に操られてきたこの美しい国土を、天下の名峰白頭山を仰ぎ見るこの約束された土地を、四十年に渡って統治してきた。
 その過程で、確かに結果としての幾つかの誤りはあった。しかし俺は基本的には常に正義を成してきた。反旗を翻してきた奴らの中で、俺以上の覚悟と決心をもって為政者になろうとした者など一人もいなかった。そうした臆病者に速やかな死を与えたのは、俺の寛大さゆえの結果だ。俺のことを飽食のブタと呼ぶ奴は、俺の住む宮殿のダイニングルームに一度座ってみればいい。そこには常にダモクレスの剣がぶら下がっていて、その椅子に座る者の心臓を狙っていることに気付くだろう。俺のことを経済も農業も知らない素人学者と蔑む奴は、一日でもこの執務室で過ごしてみればいい。ソ連とアメリカという二大国の傀儡に挟まれたこの小さな国を地上から消失させてしまわぬよう、どれだけ頭を絞り、どれだけ眠れぬ夜を過ごし、どれだけ神経をすり減らして駆け引きを繰り返してきたか、愚衆どもはそこでようやく気付くのだ。
 古女房のようにただ不満を垂れるだけなら誰でもできる。専制君主に反対する奴は、俺のようなカリスマ性と政治能力を持てなかったゆえの僻みを別の言葉に置き換えているだけに過ぎない。
 俺は伝説の将軍、金日成なんだ。白頭山で三十万人の日本兵をひとりで殲滅させた、あの白髪の、向かってくる銃弾の軌道さえも曲げてしまう武神なんだ。俺は、俺は、俺は…
 老人の上体が椅子からずり落ちていった。彼のぼやけた視界に、慌てたように走り寄る複数の兵士が映った。

 ***
 
「国境だ」
 李昌徳が肩を揺すってきて、相慶は目を覚ました。新鴨緑江大橋だよ。
 体をうつ伏せの体勢にして、下を眺める。線路の下に水面が見える。
「今まで何度も鉄橋を通過してきた。なぜここが新鴨緑江だと分る?」
「北朝鮮は線路の交換を、この四十年ほど殆ど行っていない。振動も酷いし、レールの継ぎ目も間隔が短いんだ。でもこの橋はね、車輪もスムーズに回るし継ぎ目が明らかに長い。何度か乗れば鉄路の音も聞き分けることができるようになるよ」
「一度で充分だ」
 鉄橋を越え、再び大地に戻ってきた列車は、そこで長い時間止まった。家畜の鳴き声や足音に混じって、大量の人間や人工物が奏でる喧騒が聞こえてくる。
 中国側、丹東の街に入ったのだろうか。
 相慶は李に目で問うた。李は無言のまま頷いた。
(再び列車が動き出せば安全だ)
 それから十五分が経った。人の気配が列車の周辺から消えていくのは肌で感じていた。
 三十分、一時間。
 床の上から感じられた生命の重みが、少しずつ減ぜられてゆく。家畜が一匹ずつ貨車から線路脇へと下ろされているのだろう。
 貨車の周辺を、軍靴特有の足音が包んだ。頭上では三人が潜んでいる箱の天井が再びたわみ、明らかに豚のものではない足音が響いてきた。
 かつ、かつ、かつ。
 チャンスクが無意識的に握ってきた手を、相慶も握り返した。
 足音は一分近く続き、やがて消え去った。
 まだしかし、油断はできない。早鐘のように鳴っているこの心音は、外に漏れやしないだろうか。
 睡眠薬を今飲んでおくべきだった。
 相慶はじっと身を固めた。

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