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長編小説「平壌へ至る道」(101)

 六時間前に同じ指示をした時、やはり目の前のこの若者も色をなし、役職では上位にいる自分に対し、露骨な反抗こそ示さなかったものの、一体この田舎者の副局長はどうした、気でも触れたか、という表情を隠そうともしなかった。
 その後夕方四時、第一副部長はここに電話をかけ、いつものように俺をスヒョンと気軽に呼び、彼を出してくれと頼んだに違いない。直後こいつもまた態度を豹変させ、慌てて捜査局本部に出向き、俺の意向に添った行動を起こしたのだろう。
 硬直した社会では、公務員の行動様式はその絶対数も方向性も極めて限定される。彼らの反応は趙が予想した通りだった。
「至急見せてくれ」
 平壌保衛部員が、やはり強張った顔のまま、無言で封筒を差し出してきた。
 趙は別室に一人で入った。
 繰る紙の音すら聞かれるのを恐れて、彼は壁に掛けられている独裁者親子の肖像画を裏返し、そこに盗聴器がないことを再確認した。
 肖像画は裏返したままにしておいた。

 報告書によれば、朝鮮人民軍平壌防御司令部、同選抜歩兵部隊の管轄者でもある安サムチョル大佐は五十歳。性格はやや冷酷だが、北朝鮮基準ではそれは「穏健」の範疇に入る。
 生活欄。
 保衛部の幹部職員なら噂だけは掌握していた安大佐のプライバシーを、たった一枚の写真複写が生々しく語っている。
 趙秀賢はほくそ笑んだ。

 この国のエリートたちは、いつ自分が身に覚えのない罪状で深夜係官に踏み込まれ、引っ立てられるか分らない毎日を過ごしている。特権的な生活を送っていると民衆からは恨まれ、しかしその現実は奈落の底にかかる薄い刃のような橋を一歩ずつそろそろと進むが如しの毎日だ。
 常人の精神の受容量を超えたプレッシャーを受け続ける者は、必然的にその歪みがどこかに現れ、その苦痛や違和感を何らかの「他人には話せない」代償行為で癒そうとする。軍や安全部、保衛部の幹部で、叩いてもホコリの出てこない男の存在は皆無だ。
 趙秀賢は部屋の扉を開け、コピー室へと移動した。
 部屋の中にいた係官が目を伏せる。
 封筒から取り出した安大佐の写真複写を、更にコピーに取る。この国ではコピー一枚にも許可が必要だが、カリスマ捜査官は頓着しなかった。またその紙は本来「絶対複写不可」の性格を帯びるものであったが、そのことも気にしなかった。自分にとっても、今が人生の大一番なのだ。
 コピー室の係官は何も言わず、机の上の舞ってもいない塵をひたすら凝視し続けている。
 作業を終え、資料を再び封筒に戻し、自室に戻った趙は報告書の原紙を平壌保衛部の若い係官に手渡しで返した。
「元の場所に戻しておいてくれ」
「かしこまりました」
「改めて聞くまでもないことだが、この中身は見ていないな?」
「誓って申し上げます。見ておりません」
「信用しているよ」
  
 ***

 翌朝、香ばしい魚の香りに、相慶は目を覚ました。チャンスクは既に起きていて、地下食堂主人である河の作業を手伝っている。
 趙の言葉通り、粥は掛け値なしに美味かった。
 出勤時刻のピークを待って、相慶は単独で外に出た。洪からもらった政府御用聞き出版社の身分証を携えながら、凱旋門から中心部へと歩き、仁興通りを右に折れ、朴泰平から紹介されたアパートへ昨日に続けて入る。ソウルのボランティア、李昌徳からのメッセージを確認するために。
 階段を上り、部屋の前に立った。鍵を刺した瞬間、扉がロックされていないことに気付いた。
 体中の毛が逆立った。
 昨年の十一月、大阪、布施。
 長年の悪友にして道場の経営仲間だった、朴龍洙のぼろアパート。
 部屋の鍵を開けた時の感覚が思い起こされた。あの時から俺の人生は変わったのだ。
 良い方向へ?それとも良からぬ方向へ?
 分らない。そもそも人生ってのは如何なる基準をもってその良し悪しを決めるものなのか、そこからして分らない。
 ドアを静かに開けた。
 玄関に靴が二足。
 気配を察した中年の男ー相当体を鍛えていることが分る体格ーが、相慶と同世代に見える男ーこちらは貧相を絵に描いたような体ーを引き連れて姿を現した。この国でこんなガタイをした奴は、柔道の指定強化選手くらいのものだ。間違いなく、総連からの訪問客。
「オマエは誰だ?」
 在日朝鮮人の話す朝鮮語だ。相慶は唇に人差し指を当てた。男はそれで察した。
 相慶は北向きの三畳部屋のドアを指した。中年男も言葉を発することなく顎をしゃくった。ついてこい。
「ここには盗聴器は仕組まれていないようだが、念の為の用心だ。特にこの部屋は俺が『掃除済』だ」
 部屋に入った途端に耳朶を打つ相慶の日本語に、二人は心底驚いたようだった。体勢を素早く整えたのは中年の方だった。
「壁紙を破いたのもオマエか」
 招かれざる客は鷹揚に頷いた。中年男は舌打ちした。見つかったらどう言い訳すればいいのか教えてくれ。
「ああそうだ、おい、あのテーブルのチラシ」
 中年男の言葉に、貧弱な体格の若者が部屋をすっ飛び、紙を片手に戻ってきた。
『クライフの映像を見た。一点は取ったが決定的なチャンスを二つ外した姿を見るに、現代サッカーではついていけない気がする』というメッセージの下に、端正な字で別の文言が書き加えられている。
『その二日後の試合の映像を見てみなよ、二点取ってるはずだ』
 そしてもう一つのメッセージにより、それが書かれたのが前日のことと分かった。
 李昌徳は昨日の夕方以降、ここに無事来たのだ。俺の危険を匂わせるコメントを読み、彼は早めの予定を選択してくれた。
 二日後から二日間、新安州青年駅にて待つ。
 つまり、明日と明後日の朝。時間について言及がないところを見れば、日本で予め決めていた通り、四時から五時でいいのだろう。
 となれば決行はやはり今夜。明日の夜にはどう状況が転ぶか分らない。だが趙秀賢の下ごしらえは今日どこまで進むのだろう?
 表情を変えない相慶に大男が囁き声ながらも厳しい口調で尋ねてきた。
「これは何だ、まさか本気でこの平壌で誰かとサッカーの話をしている訳でもあるまい?」
 相慶は首を振った。俺には関係のない話だ。そもそもそのチラシには何が書いてあるんだ。
「朝鮮語は分かりませんってか。では最初の質問に戻そう。オマエは、誰だ?」
 相変わらず唇を結んだままの侵入者に業を煮やした在日の中年男は、やにわに相慶の胸倉を掴んできた。彼我間の体格差から、容易に倒せる相手と踏んだのだろう。

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