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長編小説「平壌へ至る道」(88)

「そこまでして頂く訳にはまいりません。平壌は目と鼻の先ですし」
「この町に鉄道は走っていないし、この時間にバスはもうない。どうやって平壌に行く?」
「午後のバスは?」
「そんなものあるか。ここは軍人の町だから辛うじて路線バスの運行があるが、それでも一日一往復だ」
「昨日、木炭車に乗りました」
 老人は呆れたように手を振った。
「あれは地方だけのものだ。平壌への入場は許されておらん。金親子の住む栄華なる千年の都、外国人旅行者も必ず訪問するあのショールームに、木炭車などという前近代的なものを走らせることはまかり通らない」
「馬鹿な政府だ」
「今頃気付いたか?平壌に入る自動車は、ガソリンか軽油で動くものでなければならない。しかしないものはない。よってこの町からは、通勤時間の朝七時ちょうどに上りのバス便が出て、十八時に下りの便が帰ってくる。それだけだ」
 元山から運んできた野菜や穀物は、ここで全て金老人に進呈し、チャンスクが作った簡単な昼食を前に、三人で食卓を囲んだ。
「どうやってあの像によじ登る?」
「日本でロッククライミングの訓練をしてきました」
「一晩中灯りがともっているーいや、最近になって一時的に夜間照明が消されることになったはずだ。あれも君の戦略か?」
「日本にいる仲間の」
 老人は笑った。歯のない口から麦が吹き飛んだ。
「若き日の金成柱並みの策略だな。しかし衛兵はあの場所に朝まで立っているぞ」
「それはその時に考えますし、無理だと判断すれば標的を変えます。この国には奴の像は他にいくらでもありますから」
「あの銅像が錆びない理由を知っているか?」
「聞きました」
「本当に愚かな老人になってしまったよ、首領は。清掃を担当しているのは、君の偽造身分証にもある平壌防御司令部の一部隊だ。若者だけで編成された横断的な組織かも知れん。分かる限り調べてみよう」
 昼食が済んだ。
「部屋が一つ空いている、寝床もあるからひと休みしなさい」
 その言葉に甘えて、二人は布団の中に入った。黴臭さは否定できなかったが、昨夜は寒いバスで朝まで過ごし、睡眠時間は充分とは言えなかった。工作員とその相棒は間もなく眠りに陥った。
 
 相慶の目覚めはチャンスクの囁き声によってもたらされた。ねえ。
「何だ」
「私のフルネーム、知ってしまったね」
「ああ。何で言いたくなかったんだ?」
「聞きたいの?」
 女の息遣いが中耳をくすぐるのを感じ、男は勁烈な肉の欲望を下腹部に覚え、それを敢えて意識外に置くように早口で答えた。聞きたい。
「本当に?」「本当に」
 相慶には分かっていた。彼女が心底では自分の話を誰かに聞いて貰いたがっていたことを。それをずっとずっとずっと渇望しながら、迂闊な身上話が体制批判と曲解され密告される恐れが常に付きまとうこの国にあって、その機会も相手も今日まで持てなかったことを。
「辛い記憶は」
 男は呟いた。人に話すことで、薄れることもある。
 チャンスクは相慶の胸に頬を置いた。
「アボジは金一峰じいさんと同じ、パルチザンの子孫だった。おじいさんの父親ほどの幹部ではなかったけれど、それでも父の人生だって最初から約束されていたようなものだった。平壌に住み、党幹部の娘を娶り、望んでいた男児には恵まれなかったけど、姉と私の二人姉妹は幼いころからピアノも習わせてもらえた。状況が急転直下したのは、高等中学二年生の頃」
 チャンスクはそして暫し沈黙し、相慶は微かに震える彼女の肩に左腕を回した。
「無理はするな」
 チャンスクは相慶の胸に顔をうずめ、一度だけ首を横に振った。
「無理しないと話せないもの」
 相慶はチャンスクの肩を抱く左手に力を込めた。
「君のペースで話せばいい」
 彼女は頷いた。有難う。
「私のハラボジ、祖父は朝鮮戦争に出兵し、連合国側に捕まって巨済捕虜収容所で二年過ごし、そこでアメリカ兵からジャズを教えてもらったの。ハラボジは帰国後もジャズのテープを、夜になってそっと聴いていたらしくてね、その秘匿された嗜好はアボジにも伝播した。姉も私も、習う音楽は革命歌ばかりだったけど、家族だけで過ごす夜、ときおり即興で弾かせてもらって、みんなでそれを楽しんだものよ。いつの頃からか部屋に盗聴器が仕掛けられていたことを知る由もなくね」
 気丈なはずのチャンスクの声が震え始めた。
「ある夜、安全部だか保衛部だかの連中がなだれ込んできた。テープも見つかり、パルチザンの子孫は一夜にして走資派のドブネズミとなった」
 両親は一度きりの裁判後、銃殺刑に処せられた、と収容所で聞かされた。姉の行く末は今も知らない。
「私は容姿に優れている、という理由で、まずは党幹部の慰み物になり、四年、五年?もう覚えてもいないし、そんな月日を数えることもしなかったけれど、ある時元山のジャンマダンの娼館に売られた。私の生きる道なんてそれしか残されてなかった」
 声に湿り気が帯びてくる。相慶はそんな彼女の髪を撫でた。
「辺という苗字を、その時から私は捨てた。ちゃんとした仕事に就かなければ公民登録証は貰えないし、登録証がなければ食糧の配給もされないけれど、その頃には既に配給制度自体が破綻していたし、市場ではいくらでも戸籍は買えた。辺の苗字以外の身分なら何でも良かった。敵対階層であってもね。その行為が残された者にどれだけの影響を与えるか知っていながらジャズを聴き続けたハラボジと、それを受け継いだアボジ一族の苗字だけは、名乗りたくなかった。もちろん彼らが何も悪くないことは理屈では分かっているわよ。でも、ダメなの。誰かを悪者にしておかないと、私を支えるものがなくなってしまう。昌淑という名はオモニが付けてくれたものだから、それは捨てられなかった」
 部屋に挿す外の明るさから判断するに、まだ夕方であるにもかかわらず、祥原の町はーこの国の他の全ての地方都市と同様にー、遠くで針が落ちる音さえ聞こえてきそうな静寂に包まれていた。
「ねえ、チャンスク」相慶は囁いた。
 君の人生は、何かを、誰かを悪者に仕立てあげなければならないほどに苛烈なものだったと思う。アボジを憎み、ハラボジを憎むことで、君は人生の記憶に倒されそうな自分を支えてきたのだろう。
「でもね、アボジやハラボジには、君が言うように何も負うべき罪はない。本来罪を負うべきは、人民が好きな音楽を自宅で過ごす時間内にさえ聞けない社会を作り上げた奴らだ」
「ーそんなこと、あんたに言われるまでもない」
 くぐもった声で反論する彼女の肩を、男は一層強く抱きしめた。赦してやれ。
「アボジのことも、ハラボジのことも赦してやれ。そうすれば、チャンスクはチャンスク自身をも赦してやれる。どこにも行けないような感情は、今ここで、もう捨ててしまえ」
 彼女の顔に触れていた男の胸にも、湿り気が滲み始めた。
「ピョン・チャンスク。ええ名前やないか」
 女が顔を上げた。ありがとう。
 そして涙で崩れた顔に、力いっぱいの笑顔を貼り付けた。
「保衛部の奴ら、少しはマトモに仕事してるんだね。自分の本名を聞いたのは随分久しぶり」
 相慶はチャンスクの背中をとんとんと優しく叩き続け、彼女はもう一度眠りに陥った。

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