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長編小説「平壌へ至る道」(89)

 目が覚めた。時刻は夕方の七時になっていた。
 相慶は老人の妻が生前使っていた部屋の扉を開けた。
「すいません、すっかり眠ってしまいまして」
「構わん。取れる時に充分な睡眠を取るのが優れた兵士だ」
 チャンスクは既に起きていて、食事の準備に入っている。老人は若者に向き直った。後で客人が来る。その後で改めて話をしよう。

 九時ちょうど、応接室ーこれを応接室と呼べればーの床がこんこんと鳴った。金老人がカーペットをめくり、床板を剥がす。
 三十前後に見える男の頭が、そこから現れた。
 自分の商売用の部屋も同じような仕様にしていたチャンスクは驚きもせずそれを眺め、その様子に金老人は感心したような視線を送った。
「紹介しよう。反政府組織祥原派のメンバー、洪くんだ。わしらは決して内部抗争はせん。ヤマダくん、この洪くんは普段平壌で仕事をしていて、この上級党員向けアパートの二階、ちょうどわしの部屋の真下に寝たきりの父親ーもちろんパルチザンの子孫だーと同居しておる。いわばトマト階層のフリをした林檎階層だ」
 洪と呼ばれた若者は苦笑した。先生、もうその表現は時代遅れです。
 相慶は疑似妻に目を向け、彼女もまた同じように笑うのを見た。
「すみません。自分だけがこの部屋で、その言葉の意味が分かりません」
 洪が白い歯を見せたまま相慶に説明する。
「金日成・正日親子と朝鮮労働党に忠誠を誓った、中身まで真っ赤な連中は、昔からトマト階層と揶揄されてきたんですよ。平壌市民の多数は表向き、これに合致しますが、現実には多数が外面は赤いが内心ではこの国の体制に対して白け切っている、つまり林檎階層という訳です」
 老人から多少大袈裟に伝えられた相慶の入国理由には、洪は呆れたような表情を隠しもしなかった。
「洪くんの職場には情報は流れてないかね」
「初耳です。いやしかし、日本からそんなことのためにわざわざ」
「本来なら君たちが起こさなければならない行動だ。君はこのヤマダくんに出来る限り必要な情報を与え、協力を惜しまぬよう。分かったか?」
 洪はまだ表情を失っていた。
「返事!」
「はい!」
 直立不動となった若者を横目に、金老人は相慶の腕を軽く叩いた。
「さて、ヤマダくん、この男のことは信用してもらって構わない。洪くんは心底からこの国の未来を憂慮している、良識ある若者だ。出身成分を活かして政府系の出版社に勤めておる。内心の葛藤を隠しながら金日成主席とその馬鹿息子の一点の瑕疵もない人生を毎日一生懸命捏造し、人民を騙す詐欺本をせっせと作っている」
「先生、そういう言い方は」
 洪が顔をしかめ、老人が悪戯っぽく唇を歪める。そこには絆があり、自由な会話があり、冗談があり、笑顔があった。この国に入って初めて眺める光景だった。途中三度停電したが、そんな不便すらも笑いの種になった。
 トウモロコシを発酵させた北朝鮮版マッコリを酌み交わす。人生でこれほど喉越しの悪い酒はなかったが、とにもかくにもアルコールが彼らを饒舌にした。三人の男と一人の女は小声で、しかし大いに語り合い、洪青年は深夜十一時を過ぎて、床穴経由で階下の自宅に戻った。
「ヤマダさん、あなたの写真を一枚ください」最後に顔を真っ赤に染めた彼に頼まれ、手渡した。彼が実は二重スパイで、渡した写真が命取りとなる展開も頭をよぎったが、相慶はそれを振り払った。
 ここでの邂逅を信じるしかない。結局この国では、こうした人のツテを見極めながら少しずつ歩み続ける以外の途はないのだから。
 
 翌朝、七時。
 相慶はバス停の列に並ぶ洪の姿を認め、その後ろに立った。
 前夜の打合せ通り、洪青年は相慶に向かってぺこぺこと頭を下げ続けながら、配給制のバスチケットと偽造身分証をそっと手渡してきた。相慶は鷹揚に頷き返し続けながら、それを受け取った。
 バス待ちの乗客からすれば、この軍人の町で初めて見かける男。周囲は最大限の慎重さをもって彼を盗み見た。ジャケットには金老人から拝借した「満州革命烈士の子孫」であることを示すバッジが輝いている。左手首に見え隠れするのは金時計。そしてバス乗客全員が知る平壌のエリート出版社スタッフ、洪英哲のこのへりくだった態度。
 十五人いた他の乗客は十五様の想像をそれぞれ巡らせ、それぞれの結論に達した。
 男から目を背けながら、やって来たバスに無言のまま乗り込む。
 何も見えない、何も聞こえない。

 平壌市街へと続く「忠誠橋」のたもとで確かに検問は敷かれていたが、その朝までに洪が、相慶に新たな身分証を用意していた。昨夜はそのための写真だった。
 彼の勤務する出版社の安州支局編集委員。それが今日の相慶の役どころだった。検問の係官に対し、新顔がこの通勤バスに乗っている説明もこれでつき、金老人が言う通り、政府の太鼓持ち出版社の職員に対する兵士のチェックはおざなりなものだった。
 祥原と平壌を結ぶ通勤バスの中に日本からの工作員が乗っているとは、体制側もさすがに想像はつかなかったのだろう。
 忠誠橋を渡り、そのまま首都の目抜き通りの一つである千里馬通りへと入る。駅前大通との十字路を右折してしばらく走った所で、まず洪が先にバスを降り、続いて相慶も下車した。
 民族高校の修学旅行以来、十年ぶりの平壌だった。
 さすがに武者震いが膝裏に走った。

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