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長編小説「平壌へ至る道」(70)

 誰もが「党に従順である限り高水準な生活を享受できる」この地上の楽園で、日常に何の不満も持ちようのないこの発達した共生社会で、警察や軍に楯突く民間人は、ほとんど自殺希望者と捉えられても仕方がない。
 しかし外貨を稼ぐ立場にある者ならば、話は変わってくる。党の上層部に顔が効く者なら、話は変わってくる。彼女はその例外に属する者だった。
 祖父の親族に「越南者」がいる女将は、出身成分では「動揺階層」に属し、非合法ビジネスのマネージャーという職業も、北朝鮮版カーストの中にあっては決して明日が保証された身分ではない。しかし彼女にはルーブルがあり、人民元があり、本物の米ドルがあり、日本円があり、門外不出の顧客リストがあった。女将はなおも食い下がり、白に尋ねた。
「あんた、たかだか特務上士の分際でしょうが。後で第二十四師団様宛に請求書を送るか」彼女の言葉は途中で掻き消された。
 白の発射した銃弾は女将の左耳鼓膜にひゅん、という余韻を残し、背後の壁に塗られた劣悪なモルタルを砕いた。
 交渉終了。
 女将を追い出し、部屋は再び三人となった。白は部下に命じた。
「裏から外に出て、チョッパリ風の男が現れなかったか、目についた奴ら全員に聞いて来い」
 敬礼し、池下士が雑踏へと飛び出していく。
 売春宿の部屋の中で一糸まとわぬ女と二人きりになった白の目の色が変わるのに、チャンスクは気付いた。それは見慣れた男の目だった。
「オマエを軍法裁判にかけることもできる。間違いなく銃殺刑だ」
「そう。じゃあひと思いにここで撃ってよ」
「だが、オマエが締められ気絶していたことは、俺が証言してやってもいい」
 次の言葉はもう分かっていた。女は無言で胸を押さえていたシーツを床に落とし、身を横たえた。兵士が乗ってきた。
 男という生き物は本当に馬鹿だ。こいつが今最優先でやるべきことは、あの日本人を探すことではないか、下水道を利用した地下通路の存在を拷問してでも私から聞きだすことではないか。しかし裸の女を目の前にすると、あらゆる男は優先事項を簡単に入れ替えてしまう。
 まあいい、これであの日本人も無事元山駅にまで辿り着くことができるだろう。
 
 張中尉は激怒し、白特務上士と池下士をライフルの砲身で殴りつけ、二人はもんどり打って倒れた。
 「もう一度繰り返す。オマエたちはあのチョッパリがソヨンを買って建物にしけこんでいる間、観察を怠り、そして逃げられ、姿を探したが見つからず、しかしこうしてのこのこと帰ってきました、とそういうことだな?」
「申し訳ございませんでした」
 土下座する二人の部下の後頭部を踏みつけ、張は電話をかけた。
 国のあらゆる回線は盗聴されている。中尉は用件だけを告げた。
「趙秀賢副局長兼捜査官はいるか」
「今出かけている」
「人民軍第二十四師団の張だ。折り返し電話をくれ」
 三十分後、中尉の電話機が鳴った。
「趙だ」
「ああ、スヒョン。悪いが今すぐ来られないか」
 何の用事だ、と受話器を通して尋ねる愚か者はこの国で生きてはいけない。趙秀賢ーチョ・スヒョンは一言で答えた。分かった。
 
「するとオマエたちは、日本のヤクザ組織からの訪問者を平壌に知らせることなく受け入れ、そして逃げられた、ということか」
 朝鮮人民軍元山特別軍区第二十四師団の部屋は、その前に在室中のメンバー総出で盗聴器を探し、少なくとも今日の時点では一つも見つからなかったことを確認し、「掃除」を完了していた。趙秀賢は見るからに意気消沈した張中尉に、冷静な口調で客観的事実を続けて述べた。
「バレたら、この部屋にいる全員が死刑だ。銃殺の名誉は与えられないだろう。この人数なら、ちょうどトーナメントがぴったりだ」
 張中尉、崔少尉、白特務上士など、八人の兵士が一斉に顔を上げ、一斉に下げた。通訳の瞼は激しく痙攣している。
 朝鮮人民軍で重大な任務に失敗した兵士、上官に逆らった兵士、その他何らかの看過しがたい問題を起こした兵士は、ある程度の人数が集まった時点で、とある場所に集められる。そこには大きな机があり、その上には分解された短銃が二つ置かれている。
 係員の号令と共に、二人の罰則対象者は震える手で銃を組み立て、先に仕上がった者は、それを使って遅れた者をめがけて引き金を引く。運が良ければ弾は真っ直ぐ前に進み、運が悪ければ銃は暴発する。いずれにしてもそこで一人が消え、一人は数分間、寿命が延びる。
 一回戦を勝ち上がった者は二回戦へと進む。
 三回戦、四回戦。
 最後まで残った一人はそこで放免となるが、その時点で多くの者が精神を崩壊されており、たとえ軍に戻っても、結局翌月には同じ場所に戻ってくることもままあり、そこでは再びトーナメントを勝ち残ってやるという気概はもう消え失せている。
 しかし千人に一人ほど、そうした修羅場をかいくぐり、他人の殺傷に何の躊躇も痛痒も感じなくなる、一般市民としては不適格者だが兵士としてはモンスターとなる人物が現れる。北朝鮮という国でしか産み出されることのない、いわば血の流れるターミネーターだ。そうした人物に様変わりしそうな潜在力を秘めている者は、その部屋にはいなかった。
「トーナメントを避けたいのなら」
 趙秀賢は下を向く八人の兵士に向かって檄を飛ばした。警察機構に属する者が、団体や階級の垣根を超えて軍属にある者へ命令口調で話すことは、本来この国では有り得ないことで、有ってはならないことでもあった。
 しかし気にする者はいなかった。
「オマエたちは何が何でもそのチョッパリを確保するか、知恵を出し合って今回の騒ぎを正当化するストーリーを考えねばならんぞ」
 
 趙秀賢は元山郊外、当時の仲坪里生まれ、生粋の元山っ子だ。中学を卒業して十年間兵役ー最後の二年は自ら志願し延長したーに就き、そこで素質を見込まれ、朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部の一員となった。
 「保衛部」の主要な任務は国内外に散らばる反動分子およびスパイの摘発だが、現実にそこまで反動分子やスパイがこの世に存在するはずもない。
 彼らの活動は、かつては本当に、本当に国民の誰しもが等しく幸福感を共有できる楽園の建設への使命感で満ちていたはずの青年金日成が、度重なるクーデター、度重なる政敵との暗闘、一点に集中する権力と金、兄貴分たるソ連や中国の硬直した社会体制からの影響、南朝鮮傀儡政権とその背後に蠢くアメリカ帝国主義との最終決戦への準備、等によって一介の独裁者へと変節していく過程に歩調を合わせるように、歪んだものへと変化を重ねた。

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