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長編小説「平壌へ至る道」(78)

 新坪郡のこの辺りは、夜でもその風景の美しさが分った。目の前に広がるダムの水面を、月明かりが銀色に染めている。
 この国の景勝地の一つなのだろう、背後にコンクリート造りの、夜目にはそれなりに外観も整ったホテルがあった。
 木賃宿ならともかく、これだけのホテルに飛び込みで入るのはリスクが高すぎる。
 ホテルの駐車場には、数台の観光バスが止まっていた。
「あんたはチャンスクの恋人か?」朴尚民が不意に話しかけてきた。
「いや、今日知り合ったばかりだ」
 朴はしばし躊躇い、意を決したように尋ねてくる。あいつの職業は知っているな。
 相慶は頷いた。
「俺自身はあいつのことを気に入っている。もちろん恋愛対象にはならない。売春婦と婚約なんてしたら収容所送りか、下手すりゃ処刑されちまうからな」
「何の話をしている」
「あいつを守ってやってくれ」朴の目は真っ直ぐ相慶に向けられた。
「あそこで働いている女はみんなそうだが、やりたくてそんな仕事に勤しんでいる訳ではない。大体がコッチェビ上がりなんだ。野垂れ死ぬか、体を売るか、どちらかしか選びようがなくて、そして今がある。稼げるようになっても、安全部や保衛部の連中を怒らせれば、その後の運命はそいつらの胸三寸だ。ギリギリのところを歩きながら、それでも今日まで生き永らえてきた。だが今夜からはそうではない」
 そして逮捕者を出さないという伝説の運転手は、相慶の胸を人差し指で突いた。
「事実がどうあれ、そしてあんた自身がどれだけ否定しようとも、チャンスクはあんた、自称李奉吉の女になった。あの場所から男と逃げたことで、捕まればあいつの人生は終わりだ。それでも逃げたんだよ、チャンスクは。あんたを必死に掴んで、あんたに運命を託して」
「分ったよ」よく分った。
「あんたがどこの人間かは知らない。朝鮮語の訛りから判断するに、平安北道か慈江道、あるいは百ドルなんてカネを惜しげもなく払えるところを見ると、失礼だが僑胞ではないかと思う」
「正解だ。僑胞であることに後ろめたさはない。失礼だが、なんて言わないでくれ」
「こっちで暮らしているのか」
 相慶は首を振った。
「日本か」「そうだ」
「これからどこに行く?」
「平壌。そこで一仕事終え、脱出する。ここから平壌への交通機関はあるか?」
 朴はようやく笑った。
「そんなもんがある訳ないだろ。明日の朝、中国人観光客のフリしてツアーバスにでも乗り込め。平壌には一時間半もあれば着く」
 朴は遠目に月光で視認できるバスを指さした。
「観光バスの運転士、特に中国人観光客を相手にする機会が多い奴は、高い確率で反体制側の人間だ。覚えておくといい」
「どういうことだ」
 無学な工作員に、朴は説明した。
「この国を観光バスに乗って旅できる団体客は、九割以上がロシアか中国からの連中だ。在日の訪問団もいるが、絶対数で言えば少数派だ」
「まあそうだろうな」
「ロシアはともかく、中国からの観光客など十年前は皆無だった。奴らに海外旅行する余裕なんてなかった。つい最近まで、あいつらは俺たちと同じぐらい貧しかった。なあ、煙草あるか?」
 相慶は箱ごと目の前の臨時教師に差し出した。
「全部くれるのか」
「授業料だ」
「では遠慮しない」朴は一本を取り出して火をつけ、煙を吸った。
「さすがに北朝鮮産とは味が違うな。あんたは吸わないのか」
「俺は格闘家なんだ。煙草はこの国での賄賂として持参しているだけだ」
 木炭車のドライバーは小さく愛想笑いを示した。
「中国は一九八〇年代に入るまで俺たちとどっこいどっこいの最貧国だったが、毛沢東の死後、経済をよく分かっている鄧小平が舵取り役に代わって、あの国は開放政策をばんばん打ち、自由にできるカネを手にした市民が雨後の筍のように発生し、そんな連中の一部の趣味が旅行になったという訳だ。ロシアの奴らは内心アジア人を同じ人間だと思っていない。だが中国人は違う。黒龍江省や吉林省には朝鮮語が分かる者も多数いるし、漢字を使った筆談である程度の意思疎通もできる。あいつらは開放政策の重要性と、この国がいかに普遍的な情報から遮断された独裁国家であるかということを、身をもって教えてくれる存在なんだよ、今や」
「そしてそんな観光客に日常触れ合うことのできる職業の一つが、バスの運転士という訳か」
「そういうことだ」朴が盛大に吐いた紫煙が、夜の漆黒に溶けていく。
「外国人に接することで自分の国を客観視されることを、言うまでもなく体制側は恐れるよな。だから観光バスの運転士なんてのは、本来思想的にガチガチな奴らが軍から選抜される。団体旅行には添乗員という名目で監視員が必ずついて回り、運転士と相互にバチバチ監視を続けているが、人間てのはそうそうバカではない。本人がその気になれば学ぶ機会はいくらでも捻出できるし、監視員だってスーパーマンじゃない。バスに目一杯詰められた観光客五十人の動向を逐一ひとりで追いかけられるはずなどないんだよ」
「ましてや思想的に固い奴ほど、それに幻滅した後の転向は早い」
「その通り」
 そして朴は続けた。早朝を狙うんだ。
「添乗員は観光客のチェックアウトの手伝いや朝飯の世話で、朝はてんてこ舞いだ。運転士はその時間、先に外出して車両の整備とチェックに従事する。誰からも監視されていない時間だ。そこを利用して話し掛けろ」
「最初から正直に身分を明かしていいのか」
「おいおい、俺はついさっきチャンスクを守ってくれと頼んだばかりだぞ。運転士が反体制派であるというのは、あくまでも確率の問題だ。必ずしもそうだとは断言できない。アプローチは手堅く行け」
「分かった。恩に着るよ」
 そして相慶は更に一箱の煙草を荷物から取り出し、再び目の前の男に提供した。「もう一つ教えてほしい」
 朴尚民は躊躇なく受け取りながら答えた。「なんだ」
「あんたは反政府組織の一員だと、チャンスクが教えてくれた。彼女がそう言うのなら、俺はその言葉を信じる。平壌までの途上にいるあんたのお仲間を何人か差し支えない範囲で教えてくれ」
「何のために?」
「別にあんたの同志を売ろうって訳じゃない。緊急時のセーフハウスとして使えるかも知れない」
 朴尚民は溜息をついた。
「申し訳ないが、俺たちは組織だって活動している訳ではないんだ。横の連絡手段など何もないし、郵便物は全て読まれる。こうして立ち話をするのだって、昼間じゃ論外なんだ。しかも今あんたたちのことを伝えても、情報共有までには早くて数日、下手すりゃ数週はかかる」
「通信手段は何もないのか?」
 日本でもようやく携帯電話が流通し始めた一九九四年当時、北朝鮮ではまだその存在すら多くの国民は知らずにいた。
「昔は軍鳩がいた」伝書鳩のことだ。
「今は駄目だ。大気内の磁気が変わったらしく、目的地に着く確率も、帰巣の確率も、十年前より半分以下に落ちた。足にメッセージを巻いた鳩がまかり間違って軍施設に迷い込めば俺たちは終わりだ。まあそもそも生きてる鳩なんざ、とっくのとうに一匹残らず食われちまったがな」
「あんたの信頼する同志は、本当にこの道の途上に一人もいないのか?」
 朴尚民はじっと相慶を見つめた。
「ここから三十分も車で走れば、谷山という町がある。まだ生きているとして、俺が知るだけでその町には五人の反政府主義者がいるが、平壌元山観光道路からは外れた位置にあるから、あんたがそこに辿り着くことは不可能だ。従って俺も彼らに関する情報をこれ以上開示する意味はない」
「他の場所には?」
「なあ、あんた」朴尚民は苛立ったように口を開いた。
「俺がそんなことを喋れる訳がないだろう?チャンスクになら話してやってもいい。しかしあんたのことは何も知らない」
 相慶は胸元から粗末な紐のペンダントを引っ張り上げた。先に鍵がぶら下がっている。
「これは俺をこの国に運び込んだグループの一人が入手した、平壌市内の総連幹部向けアパートのキーだ」
 住所は知らない、と前置きし、相慶はアパートへの行き方を話した。平壌地下鉄のどの駅で下車し、どの出口から下界に出て、どの通りを歩いてどこで曲がって、何階まで上るのか、というところまで。
「あんたが俺から裏切られたと信じる事態が起きれば、安全部か保衛部の奴らに今の情報を伝えればいい。俺がそこでしばらく過ごすようなら、俺の身柄はあんたに預けたも同様だ。それからこのことも断言しておく。俺は元々死ぬつもりでこの国に潜入し、今もその気持ちに変わりはない。俺がもし捕まったら、誰の名も売ることなくその場で舌を噛み切ると、ここに約束しておく」

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