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長編小説「平壌へ至る道」(57)

 一九九四年五月 北朝鮮 元山
 
 船は朝七時ー当時、日本と北朝鮮との間に時差は存在しなかったー、元山港に到着した。
 相慶はその時間を、左手首に巻いた金色の腕時計で確認した。

「何やねん、この悪趣味な時計は」
 糸魚川で現地人化教育を施されていた頃のある日、韓国に一時逃亡中の朴からの置き土産だという金ピカの腕時計を伊勢から渡され、これを常時身に着け、腕に馴染ませろと命じられた二十代の若者は、唇を固く結んで首を振った。「こんなもん身に着けるのはヤー公か野球選手だけやろ」
 一九九〇年代になってようやく、サラサラヘアーをなびかせDCブランドに痩身を包む、タレントと見紛うようなプロ野球選手が現れ始めていたが、それまでの彼らの定番ファッションはパンチパーマに白いスーツ、真っ赤な幅広ネクタイに鰐皮の靴と、まるでその趣味の悪さを打率や防御率と同じように競い合っているかのような量産型に席捲されていた。巨人軍との試合のために新幹線東京駅ホームに降り立った広島カープ御一同様を見た市民がヤクザの出入りと勘違いし公衆電話から110番通報した、という都市伝説も、あながちフィクションではないのかも知れない。
「鄭くん、君も総連にいた者なら、金色の腕時計がどういう意味を持つかは分かるだろう?」
 伊勢の言葉に、若者は渋々首を縦に振った。
 朝鮮民主主義人民共和国の建国、維持運営-要約すればどれだけ貢いだか-に多大なる功績を認められた者は、主席その人から直々に、オメガ製の金色の腕時計を下賜される。文字盤の上部に燦然と輝く、同社のアイコンとも言うべき「Ω」マークの箇所に、代わって「김일성(金日成)」の三文字をエンボス加工すべしというクライアントからの要求に、オメガ本社も当初は断固として拒否したが、一介の時計屋がそうした駆け引きであの瀬戸際外交のトップランナーに勝利できるはずもなく、継続的な大量発注と引き換えに、このブランドで唯一、発注者の過剰要求がまかり通ったモデルーと言っても当然ながら非売品-となった。
 北朝鮮国内でこの腕時計を着けて歩けば、水戸の御老公がひと暴れした後にご開陳する印籠のような効果をもたらす一方、腕時計は一つ一つの型番が記録され、誰にどの時計が送られたかが管理されており、紛失が明るみになれば「首領からの最高級の信頼と寵愛を裏切った」ものとして即刻追われ、消される立場に転ずる。
 貧困ゆえにジャンマダンに特権階級の身分証を売る者はいても、この腕時計だけは出回ることがない、と言われている所以だ。
 経済的停滞が顕著になったこの数年ほどは、同じ金時計でも、いわゆる「廉価版」が下賜されるようになった。
 それが、総連時代に二千万円を朝鮮労働党に寄付し、その見返りとして朴泰平が平壌でうやうやしく頂戴してきたという、日本の某有名メーカーの製作した「ただの金時計」だ。
 こちらの方も、裏蓋には型番が刻印されているが、朴泰平にとって「どのみちワシは総連を足抜けして日本国籍を取った時点で大罪人やさかい」、時計の第三者への譲渡には何の心理的負担もなかった。

「向こうで何かあれば」
 伊勢は鄭相慶の腕を掴んで助言した。
「この時計を見せればいい。朴さんによれば、あの国で偽物または他人の金時計の装着がバレた場合でも極刑は免れないが、それを質すだけの肝を持った治安要員などいない、ということだ。もしそれが本物だったら、その要員の命運はどうなるか分かったものではないからな。一方であの国では今、党幹部やエリートは民衆からは怨嗟の対象だ。金時計がモーセのように人波を掻き分けることもあるだろうが、集団に囲まれ撲殺される状況もあり得る。扱いは慎重に」
  
 安田社長と伊勢さんはどうなったのだろう、と不意に思った。県警の連中を手玉に取り、今頃部下と笑って肩を叩き合っているのか、それとも矛を収め損なった彼らに何らかの公務執行妨害を仕立て上げられ、仲良く留置所に押し込まれているか。
 安田と交わした最後の晩餐はつい一昨日の夜だったが、それは遠い遠い昔の出来事のように感じられた。

 元山港には数隻の巡洋艦、フリゲートが浮かび、潜水艦の鼻先が鉛色の海から突き出ていたが、素人目にもその老朽化が見て取れた。辛うじて海に浮かぶ鉄屑たちは、この屑の底でスクリューが回り、洋上を進む姿をまるで想起させるものではなかった。
 民族学校時代、修学旅行で新潟港から万景峰号に乗って初めて降り立った「祖国」が、この元山だった。当時の記憶は殆ど消失していたが、町は当時も今も、単色でしか染められていないようだった。建物も、道路も、船も、港湾施設も、そして海の色までが灰色で塗り潰されている。
 色彩の乏しさ。十年前に抱いた祖国への印象は、その時も変わることはなく、むしろ進行の度合いを増しているようだった。

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