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「伊豆海村後日譚」(35)

 パク・チョルスは本多幸を前に歩かせ、その二歩後ろに続いた。
 人質の眼は闇夜にすっかり慣れており、感情を失い、従って恐怖心をも失った体は絶え間なく前進していた。裏道を通れ、という元少佐の指示通り、地元民の彼女は的確に獣道を選択する。
 ストックホルム症候群。
 この後ろを歩く重犯罪者の逃亡を助け、その身の安全を担保するためにできる行動は何でも取ろうというのが、今この女性の唯一にして絶対的な目標となっていた。彼女はもはや紐で繋がれてはいなかったが、この夜道を歩く二人は既に奇妙な連帯感でしっかりと結ばれている。
 投光器やパトカーからの光がうっすらと漆黒の中に溶けている。
 時折体に雑草が当たり、微かな音を立てる。パク・チョルスが何度かそうしたミスを犯した際、眼の前の女性は「気をつけて」とまで囁いた。
 パトカーの最後尾横を通り抜け、更に三百メートルほど進んだところに、もう一台警察車輛が見えた。これこそが最後の一台だな、とパク・チョルスはあたりをつけた。背後で銃の発射音。ハン・ガンスのものだと分かった。枯れ木を踏まないようにして、車に近づく。
 中には二人の警官がいた。一人が無線機を握りしめ、叫んでいる。署長が撃たれたといったような内容のように聞き取れた。興奮か恐慌かその両方か、鬼のような形相で助手席のドアを開け、別荘地へと走って行った。
 パク・チョルスは本多幸に告げた。「一緒に行くぞ」
 そして一気にパトカーまで走り抜け、先程の警官が閉めたばかりのーまだ鍵はかかっていないはずだードアを開け、車内に飛び込んだ。続けてやって来た肥満体の女を後部座席に押し込む。
 まだツキはある、元少佐はそう思った。運転席に残った、石像のように固まって動かない警官は、彼と同年代の男だった。袖に長谷川という文字が刺繍されている。そのこめかみに拳銃の先を据えた。
「検問に行け。人質が一人脱出してきた、保護したので署まで戻る、と言うんだ。無線は使うな」
 警官は従った。元少佐は女のマインドコントロールが解けないように釘を刺した。
「おまえにもしばらく付き合ってもらう。少しでも反抗の素振りを見せたら躊躇なく撃つ」
 おまえの両親にそうしたようにという言葉は呑み込んだ。現実を思い出させ、両親を奪った自分への憎しみを喚起させることは、今は得策ではない。女は暗い顔をしたまま微かに頷いた。
「最終目的地は沼津港だ」
 撃鉄を上げる。警官は震える手でギアを操作し、車をバックさせ、ハンドルを切り、そしてゆっくりと前進した。
「おまえがパク・チョルスか」
 逃亡者は掠れた声で誰何する警官の側頭部へ、運転に影響を与えぬ程度の強さで銃把で殴りつけた。
「おまえは俺に何の質問もできないし、対等の言葉で話しかけることもできない」
 別荘地の入口に検問があった。チョルスは素早く後部座席の足置きに体を沈ませた。
「本多さん、あんたは俺の体の前に足を置け。それから長谷川、銃口はおまえに向けている。おまえが騒げば俺は一巻の終わりだが、おまえだけは必ず道連れにする。必ずだ」
 パトカーは検問で止まった。若い警官が敬礼してくる。
「お疲れ様です。どうしました」
「六八二号だ。逃げた人質を保護した。至急署に戻る」
 警官が無表情のまま後部座席を覗き込んできた。
「失礼ですが、お名前は―?」
 幸が正面を見据えたまま氏名を告げようとした時、長谷川が怒鳴った。「おい若僧!聞こえなかったのか?俺は至急署に戻ると言ったんだ!」
 パトカーは検問を抜けた。
 三十分ほど走り、真っ黒に染まった駿河湾を望む放棄されたレストランの駐車場で、チョルスはパトカーを止めさせた。足置きから体を起こし上げる。
「パトカーの後部ドアが中から開かないというのは、本当か」
 元少佐の質問に臆病な警官は答えた。全ての車両がそうという訳ではないが、こいつは確かに外からしか開かない。
「そうか。では開けろ」
 長谷川は溜息をつきながら車を降り、外から後部ドアを開いた。
 元少佐は女に声をかけた。「ここで降りろ」
 信じられないものを見たという風に、彼女は無言で男を見つめた。
「これ以上はおまえの存在は足手纏いになるだけだ。車から降りたら歩いて家まで帰るもよし、町に出て誰かの保護を求めるもよしだ。運が良ければ通り過ぎるパトカーを捕まえられるかも知れん。そこで知ってることを洗いざらいぶちまければいい」
 女はそのまま放り出された。
 六八二号車が遠ざかってゆく。
 助かった、と彼女は溜息をついた。その途端、パク・チョルスへの反感が体内で急速に湧き上がり、下腹部で沸騰した。生命の危険が去ったことで、それまで蓋をしていた加害者への憎悪が一気に解放されたのだ。よく考えてみれば自分の父と母を撃ち殺したのもあいつだった。何故、何故私はそんなあいつと行動を共にしたのか、あいつの無事を願ったのか、車を降りろと言われた瞬間、裏切られたような気持になったのか。
 幸は混乱した。自分の感情容量を超えた葛藤だった。
 両親を殺した男への嫌悪はやがて、そんな男に積極的に協力した自分自身への嫌悪に向けられた。彼女は笑い始めた。
「一体何なのよ、私」
 漆黒の世界で、深い森が背後に迫る世界で、女の笑い声は止まることなく続いた。そして彼女の体内に張り巡らされた神経の一部が、音を立てて断裂した。
 
 ***
 
 北田を倒した後、反撃を避けるべくハン・ガンスは建物の中に飛び込んだ。部屋の奥へと転がり込み、次の人質として適当に女の手首を掴んだ。
「やめてくれ!」そう叫んで近づいてきた男を銃で振り払うと、男はあっけなく倒れた。
「安田さん、大丈夫か!」
 勝手に仲良しごっこを続けてやがれ。ハン・ガンスは安田夫人を盾とし、窓際に立った。
「もう一度だけ聞いてやる!車は用意できるのか?」
 管理官はちょうどその時、別荘の側面から回った四人の特殊急襲部隊からの報告をイヤホンで聞いていた。
 彼らが今別荘の二階から無事建物の中に侵入したこと、二階と三階には人の気配もないこと、これから一階に少しずつ降りていくが現時点で人質と容疑者の数がそれぞれ不明であること、を確認した彼は、これ以上の駆け引きは危険と判断し、具体的な回答は与えてやるものの、その時間を引き延ばす策の提示を決め、ハンドマイクを握った。
「車は用意する。これ以上人質に手をかけるな。今何人の人質がそちらにいて、君たちは何人残っているかを教えて欲しい。その回答を聞き次第、車を玄関前まで回そう」
「やかましい!」
 叫び声と同時に発射された銃弾は、誰かのジェラルミンの盾に当たり、キンという音を反射させてどこかに飛んでいった。周囲の警官が一斉に体を丸めた。
「いつまでもぐだぐだ喋ってんな!今すぐ車を寄こすか全員死ぬかのどちらかだ!」
 興奮するハン・ガンスは後ろを全く見ていなかったし、自分に近づく者の気配を背中で感じ取ることもできなかった。無抵抗のままバタバタと死んでいくこの老人たちに何ができると高を括っていた。
 忍び寄る影は静かに動いた。床に散らばった照明の残骸を踏んだら一巻の終わりだ。影は靴下を穿いた自分の足がスムースに床を這うのに満足しながら、それでも警戒しながら一歩ずつ、音もなく進んだ。他の老人たちは、そんな影の様子を固唾を呑んで見守っている。犯人グループへの協力を昼間に匂わせていた土屋を含め、誰も声を発せず、呼吸をも忘れてしまったかのようだった。影に恐怖はなかった。足の震えも全くなかった。命が惜しいとか惜しくないとか、もう一人の自分はそうした概念を既に超越した場所に立っていて、この腐りきった下界を見下ろしている。私はもう死んだ人間だ。一度死んだ人間が、また死ぬなんて話は聞いたことがない。
 開け放った窓の向こうで、拡声器からの声が聞こえてくる。
「ー分かった、君の要求を全面的に受け入れよう。今からパトカーを一台玄関に差し向け、キーを指したままの状態にしておく。後部座席にもトランクにも誰も隠れていないことを好きなだけ確認し、好きなように車を使ってくれ。君の要求は一般の乗用車だったかもしれないが、生憎とそれをすぐには用意できない。こんな時代だ、何から何まで揃うことまで期待はしないでくれ」
 ハン・ガンスは銃口を上に向け、祝砲を放った。
「どうした、チョッパリの腰抜けども!何十人もいて俺ひとり捕まえられねえのか!おまえたちから逃げおおせるのは簡単だな!追いかけたければ勝手にそうしろ!その時には順々に殺してやるぞ!おまえらなんて何も怖くねえ!」
 叫びながら興奮が喉元までせり上がってくる。ハン・ガンスは殆ど白目を剥き、髪を逆立て、失禁しそうな興奮を味わいながら、前方に広がる警察の群れを睨みつけて尚も声を張り上げた。
「おいどうした!根性のある奴は何処にもいな―」
 後頭部に衝撃を受け、ハン・ガンスは前方にたたらを踏みながら庭へと落ちた。ようやく足を止めた時には、部屋の真上、二階ロビーの窓際にいた狙撃隊からの銃弾が右肺を突き抜けていた。倒れながら背後に眼をやった。建物の中へは充分な光が行き渡っていなかったが、死ぬ直前の人間が経験するあの異常なまでに発達した五感によって、肩を震わせて深い呼吸を繰り返す老婆の泣き顔を認めた。その右手にロビーのキャビネットに飾ってあったはずのブロンズ製ビーナス像のレプリカが握られているのを認めた。ビーナス像の先端に赤黒い液体が付着しているのを認めた。
 三時間前、四十八年間病める時も健やかなる時も寄り添って生きてきた夫を至近距離で殺された金敷夫人は、ビーナス像を床に落とした後も泣き続けながら、それでも外に向かって訴えた。涙で声にならなかったが、意味は通じたようだった。
「ここにはもう犯人グループはいません!」
 警官たちが走ってくる音が聞こえる。
 ハン・ガンスは銃を握り直そうとしたが、冷え切った指はもう動かなかった。いまわの際に思い出した記憶は、当時は大尉だったパク・チョルスの言葉だった。
「なぜなら、この国には本物の英雄は必要ないからだ」
 凄い台詞だったな、あれは。
 全く、あんなことを会ったばかりの俺に言うなんて、そんな芸当ができるのは少佐だけだ。
 
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