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「伊豆海村後日譚」(33)

 交信から一時間が経った。
 パク・チョルスはハン・ガンスに一瞥を与えたが、この二十年来の腹心は無言のまま首を振るだけだった。
 満海人民軍のカリスマだった男は、今ここに、今日まで見落としてきた自分の軍人としての欠陥を噛み締めていた。
 絶対的無謬性を持つとされる「大将」の何気ない一言が、あの国のあらゆる方針を決めていた。そこに一貫した戦略などなかったが、「偉大なる領導者」、「敬愛する将軍様」の血を受け継ぐ者の指示に矛盾などなく、軍幹部は雲上人に粛々と従い、勝ち目のない戦略に基づく無意味な演習を繰り返していた。
 重油が不足し始めると、黒板にチョークで描いたフネの進路を示す落書きのようなものが、海軍の実地訓練と見做されるようになっていったが、意見の具申は一族郎党を含めた死を意味し、パク・チョルスもそれに従った。
 日本に亡命した後も、ただ上から与えられる業務の遂行によって糊口を凌いだ。
 与えられた状況に応じてどの戦力をどう使うか、そうした判断には優れていても、状況そのものを自分で作り、俯瞰し、動かす訓練を一切受けてこなかった自分だったのだ。幾つもの致命的なミスを繰り返し、この伊豆最奥部の貧村に自らを追い込み、同胞の恥と糾弾され、部下に意見され、老人たちの反抗を許し、プライドも地に墜ちた元少佐には、これ以上の忍耐はもう残っていなかった。今発信すれば、闇の中で敵と睨み合いを続けているであろう部下をかえって不利な状況に追い込む恐れがあると知りながら、パク・チョルスは我慢できなかった。自分の弟が、部下が、日本人との戦闘に負けるとは考えられなかった。考えたくなかった。
 だからパク・チョルスは無線機のボタンを押した。ハン・ガンスが自分の見えない位置できつく眼を閉じたのは気配で分かったが、構いはしなかった。
「ヨンナム、ジョンヒョン、取れるか」
「ヨンナム、ジョンヒョン、状況はどうだ」
「ヨンナム、ジョンヒョン、敵は殲滅したのか」
 トランシーバーからの返事はない。
「ガンス」元少佐は静かに口を開いた。
「はい」
「人質を一人ずつ連れて沼津まで向かう。明け方には港に着く」
 ハン・ガンスは下を向き、唇を噛みしめ、瞳を潤ませながら再び顔を上げた。
「申し訳ございません。私には港に向かう選択が生き残る道とは思えないのです」
 パク・チョルスは撃鉄を起こした。「どうした、ガンス」
 溢れ出て止まらない涙を、ハン・ガンスは拭おうともしなかった。
「申し訳ございません。私には港に向かう選択が生き残る道とは思えないのです」
 二人の男はしばらく何も言わなかった。ハン・ガンスの嗚咽だけが、その周囲の空気を震わせていた。
「ーそうか」チョルスは立ち上がった。「何とか生き残れ」
「少佐」男はまだ泣いていた。
「来世で出会っても、私はあなたにお仕えします」
 パク・チョルスは和室に入り、人質の中で最も若く体力のありそうな者ー本多幸の太い手首を掴んだ。
「何するの!」
 夫を目の前で撃ち殺され、放心状態にあった彼女の母親は、今また娘をも奪わんとする男の腕に飛びつき、歯を剥き出しにして噛みつこうとした。元少佐は素早く右手を引っ込め、トカレフの銃身を彼女の開き切った口蓋に捻じ込み、引鉄を絞った。
 撒き散らされた血液と脳漿が、周囲の老人たちの顔や衣服にかかる。
 立て続けに両親を眼前で失った本多幸はもはや抵抗する気力もなく、ゴム人形のようにパク・チョルスの腕に抱えられた。
 軍人としての本能で、人質を抱えた男は裏口から外に出た。
 別荘の中は湿った沈黙に覆われている。三留老ら五人の遺体は誰からともなく部屋の隅に並べられ、誰からともなく血痕を拭われていた。ハン・ガンスはそうした人質の身勝手な行動に、もう何も言わなかった。老人たちもまた、遺体の服装を整え汚れた畳をできる限り綺麗に拭いた後は進んで固まり、進んで動こうとしなかった。少佐が出て行ってから十分か十五分か二十分、別荘の中では誰も喋らず、咳ひとつ発さず、身じろぎひとつ起こさなかった。
 そこに遠くから何台もの、車の音が近づいてきた。
 ハン・ガンスは身を硬直させた。
 突然、別荘が光に包まれる。ガンスは涙を手で拭きながら、慌てて窓際まで走った。 
 
 香は船戸に肩を貸し、道路を渡った。周囲は再び静寂の闇に包まれている。父の経営する店に入った。
 敵の死体がそこに横たわっている。
 船戸は片方の眼だけで女に問い、女は唇を結んだまま小さく頷いた。
 階段を上り、旅人が借りていた部屋に入る。念のためトランシーバーの電源を落とす。男を壁際に座らせ、香は再び店舗へと降りた。自分が殺した男に眼を向けないようにしてガーゼやピンセットを探し、再び部屋に戻った。
 船戸を水道の蛇口まで連れて行き、その血まみれの眼球に水を注ぐ。
 香は絶叫する男の背中を必死で抑えた。
「少し我慢して!」
 部屋に入り、なおも呻き続ける男に、女は一喝した。
「敵が近くにいたらどうするの!船戸くんだけが死ぬのは自由だけど、今はまだ巻き込まないで!」
 若者はタオルを口に咥え、ぎりぎりと歯を喰いしばり、香の腰に指を立て、強烈な痛みに大量の涙を流したが、結果的にそのお蔭で、右眼に入った細かなガラス粒子の大半が流れ出た。鼓動にあわせて痛みが襲ってきたが、少なくともゆっくりと眼を閉じることはできるようになった。
 ガーゼを右眼にあてて、テープで留めながら、香は船戸に穏やかな口調で告げた。
「明日病院に行きましょう」
 船戸は頷いた。明日自分たちが生き残っているかどうか、そんな言葉はお互いに口にしなかった。
 二人で並んで壁に背を預けて座る。敵に見つからないようにという配慮以前に、光を感じると激痛を覚える男を慮って、部屋の中は真っ暗なままにしておいた。
「痛みは?」
「さっきよりはマシになった。ありがとう」
 良かった、そう答えて女は男の腿にそっと手を置いた。
「今夜はここで待機しましょう。あなただってもう動けない」
「誰かが襲って来たら?」
 香はウジを叩いた。まだ弾は残っているわよ。それに、今や相手も二人。人質を別荘に残している以上、あいつらも闇の中でおいそれとは行動できないでしょう。
 船戸は息だけで笑った。香さんは何者なの?
 女も笑った。信用金庫の一般職よ。
 二人はそしてしばらく黙った。眼の痛みは相当なものなのだろう、旅人は時折顔をしかめ、それでも笑顔は笑顔のままだった。
 潮が満ちてきたのか、波の音が少しだけ大きくなった。
「さっきの話の続きをして」静寂に馴染めず、香は口を開いた。
「さっきの話?」
 暗黒の中で彼女が男の顔を向き、その甘い口臭が男の鼻を衝く。若者は下腹部に欲望を感じるが、それが体のある機能には決して作用しないことも分かっていた。
「死に場所を探している、って言ったじゃない」
「言ったかな」
 香は船戸の頬を指でかるくつねった。とぼけないで。
 そして一呼吸置いて続けた。私も同じようなものだから。
「殺したんだ」男は唐突に言った。女は自分の心拍が跳ね上がったのを感じ、少しだけ身を引いた。闇の中で良かった、と心中で息を吐いた。
「撃ったんだ、中学生の頃からの親友の眉間を」
「ーなぜ?」
「そいつが妹を刺し殺したから」
「ーそう」
「こんな話、聞きたい?」
「質問に質問で答えるようで悪いけど、船戸くんはどうなの?」
「どうなの、って?」
「その話、今まで誰かにしたことは?」
「つい先週の出来事だ、できる訳がない」
「誰かに聞いて貰いたいと願ったことは?」
 男は黙った。
「人に話すことで、哀しみは共有できるのよ。今日あなたと私は重い経験を分かち合った。だったらもうひとつ、一緒に持つ荷物が増えたっていいんじゃない?」
 船戸はふうっと息を吐き、香はそんな男の肩に顔を載せた。
「中学時代に小田原に住んでて、そこでイジメにあって、それで帯広に引っ越したんだ。その話は一昨夜、親父さんにしたけどね」
「あんな意固地な爺さんよりは、私の方が告解相手としては良くない?」
 そして二人でささやかに笑い合った。
「一人だけ、大田という奴だけが、俺に話しかけてくれた。俺と同じぐらい周囲から軽く見られていて、俺と同じぐらい気が弱かった。でもいい奴だった、本当に。俺が北海道に越した後も何かあればメールをくれたし、毎年夏休みには遊びにも来てくれた。ウチはペンションをやってて、夏だけは忙しかったけど、奴も仕事を手伝ってくれてね、家族みんなが奴に感謝し、もう一人の息子、兄弟のように思っていた。妹の恵はそれ以上の感情をアイツに持ってしまったけど」
「ーそう」
「俺は高校卒業後帯広を出て、全国を転々としながら働いた。『混乱の五年』が始まってからは、北海道に戻る術も失ったし、同じ場所にじっとしているのとあちこち移動するのと、どちらが危険かよく分からない毎日だった」
「そんな状態だったよね」
 香は自分のどうしても消せない記憶が今また体の一部を内から抉るのを感じていた。
「二年ぶりに携帯のメールが通じるようになった時、まず恵に送信した。彼女の返信はこうだった、『お兄ちゃんから連絡があるなんて驚き。生きてたんだね、お互いに。凄く嬉しい。私もお兄ちゃんにニュースがあるんだよ』。妹は名古屋で働いていて、大田は彼女を追いかけて同じ街にいた。奴もまた恵への想いを捨て切れずにいたんだ。都会での女の一人暮らしはまだ危険だったから、二人は同棲を始めていた。その時は二人とも幸せいっぱいの時期で、俺も名古屋まで行って、数年ぶりの再会に三人で抱き合って大泣きしたよ」
 ビールでも飲もうか、船戸はそう呟き、香は下まで取りに行った。
「船戸くん、あなた結構重傷よ。お酒なんていいの?」
「ここからの話はアルコール抜きではちょっと」
 香は再び船戸の肩にもたれた。男は一気にビールを呷り、缶を握り潰した。
「俺も同じ街で仕事をどうにか探した。つかず離れずの距離にあったアパートを借りて、できる限り彼らの邪魔はしないように努めた。二人の関係が何故悪化したのか、詳しい話は結局分からないままだったけど、とにかく二人はその後別れた。まあ妹だけが別れたつもりでいたけれど、大田の方はそうじゃなかった」
「ストーカー?」
「懐かしい言葉だね。一緒に死のうだの君を殺して僕もだの、随分と脅されてもいたらしい。でもこんな時代だ、その程度のいざこざに警察は構ってくれない。そして先週の金曜、恵から電話があった」
 船戸は言葉に詰まった。笑顔を貼り付けた顔から、ガーゼを貼った右眼から、ぽたりと涙を落とした。「お兄ちゃん、助けて、ってー」
 若者は腕に鼻を擦りつけて、しばらく嗚咽した。香は男と一体化するかのように彼の首筋に顔を埋め、彼の左手を強く握った。二人はそのままの姿勢で、じっと佇んだ。
「妹のアパートに着き、扉を開けたけど、もう手遅れだった。不思議なもんでね、恵の部屋は六畳一間だったのか、というのが最初に感じたことだった」
「ーそう」
「腹に刺さっていた鋏を抜き取り、しばらく無意味に部屋を周回していた。そして姿を消していた大田に連絡を取った。奴はすぐ近くの庄内川の川原にいると答えた。以前三人でハイキングに見立てておにぎりを食った所だと。行ってみたら、あいつは座ってじっと水の流れを見つめていた。その後ろ姿に、ああこいつは中学時代俺を救ってくれたんだ、今日までずっと一番の友だちでいてくれたんだ、という思いしか持てなくてね。そのまま立ち去ろうとした俺の足音に、でもあいつは気付いて、振り返りながら声をかけてきた。珠樹、殺す気はなかったんだ、本当だ、と」
 船戸は隣に立て掛けた八十九式を指でなぞった。
「大田は自分から進んでこいつの銃身を掴み、自分の額にその先を押し当てた。本当に悪かった、おまえにもおまえの両親にも良くしてもらったのに、と奴は言って、俺はそれ以上その声を聞いていられなかった。自らトリガーを引こうとした奴を止めて、俺はこう告げた、自殺は許さない」
 それから今日まで、俺もまた死に場所を探している。
「死なないで」香は言った。無意識のうちにそう口走っていた。
 船戸は香の髪に手をやった。
「どうすればいいのか分からないよ」
「私も今日まで、生きる意味を失っていた。なのに今もこうして生きている。店の中に入ってきた満海の兵士に、撃たせてやっても良かった。でも最初に引鉄を引いたのは私の方だった。そして今ここに座って、船戸くんの話を聞くことができた。私ね、今強く思うよ、生きてて良かった、って」
 外から微かな人工音が聞こえてきた。二人は眼を見合わせた。
 人工音はどんどん大きくなり、波のささやきをかき消した。何台もの車が曲がり角で次々と停まった。香は立ち上がり、窓の外をそっと見た。パトカーよ。
「私たち、助かったんじゃない?」
「三留さんたちが無事でない限り、助かったとは言えないな」
 香は男の横に戻ってしゃがみ、男の頬に口づけをした。
「下に降りる?事情を話せば病院に連れてってもらえるかも」
「明日でいいよ」
 窓の外で警官たちが騒いでいる。
「これはパク・ジョンヒョンじゃないのか?」「おい、こっちにも死体だ!」
 最後の声は真下で響いた。集団の気配が床を震わせてくる。
「この部屋にも誰か入って来るわよ」
「鍵をかけよう。申し訳ないけど、ここは客室と物置の扉は見分けがつかない」
 香は船戸の頭を軽く叩いて、部屋のカギを静かにかけた。カチリ、という音がやけに響いたと感じられたその数秒後、どたばたと廊下を入る足音が耳朶を打った。「誰かいませんか!」
 二人は硬く抱き合い、知らず知らずのうちに呼吸を合わせていた。
 三分ほど喧騒が続き、パトカーの群れは一台を残して二果の方向へと続けて消えて行った。建物から人の気配が薄れていく。闇の中で密着していた二人は、同時に深い溜息をつき、同じ高さに目線を置き、同時に苦笑した。互いの体に回した腕を、互いに離そうとはしなかった。
「私の話も聞いてくれる?」唇を重ねた後、女が言った。男は笑顔のまま頷いた。

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