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「伊豆海村後日譚」(34)

 自らの手で故人に仕立てあげた前麦笛会会長の別荘跡にひとり立て籠もっていたハン・ガンスは窓に眼をやり、投光器の眩しさに一瞬視力を失った。
「速やかに武器を捨てて投降せよ」
 ガンスは窓を開けた。外の喧騒が止み、警官が一斉にライフルを構えるのが見えた。元人民軍兵士は和室に駆け込み、一人の手を引っ張って再び窓際に戻った。
「こっちには人質がいる!草履集落の者全てだ!」
 しばし無言の後、スピーカーがまたもがなり立てる。
「今自首すれば、ちゃんと裁判を受けることができる。君たちが昔住んでいた国で開かれていたような裁判ではない。ちゃんと弁護士を選任し、事件を起こした理由も、時間をかけて聞く用意がある。どうかこれ以上罪を重ねないでくれ。大人しく投降すれば、君たちにも未来がある」
 何の未来だ。俺に何の未来が残されているというんだ。
 ガンスは銃を構えた。
 人生の半分近くの年月、命運を捧げてきた上官。あなたの下にいたからこそ、私は今日まで生き永らえることができました。どうか逃げてください。私はここで可能な限り時間を稼ぎます。その間に一センチでも遠くに逃げてください、少佐。
 元人民軍兵士はトリガーを引いた。乾いた炸裂音がした。
 
 沼津警察署長、沖田毅は張り切っていた。
 俺はそこらのお飾りキャリアじゃない、タフな刑事の一人だ。官僚組の人脈を活用し、犯人グループの身元を割り出したのは俺の功績だ。
 機動隊を中心とした四十人の特別編成隊が伊豆海村に出発しようとしたその時、彼は管理官の肩を叩き同行を申し入れた。自分のそうした言動が周囲に与える迷惑も捜査一課長が示す反応も、どちらもよく分かった上での依頼、いや命令だった。
「しかし署長、連中はあまりに危険でー」
「私がいなければ、伊豆海村の伊豆ヒルズという場所まで、今日中には辿り着いていませんでしたよ」
 ものものしい雰囲気の中、この時ばかりはガソリンの消費も気にするなという勢いで屈強な男たちがパトカーに続々と乗り込むのを、マスコミが傍観する訳がない。連れて行けいやこれは極秘任務だという揉み合いに割って入った署長は、さしあたり明朝六時に公式発表を行う、とこれからの状況も不明なまま空手形を乱発し、それぞれのカメラクルーにも同行を許可した。
 そして今、沖田は回り続けるテレビカメラの真横で自分の雄姿が明日のトップニュースとして全国に放送される様子を想像しながら、ハンドマイク右手に朗々と喋り続け、闇に流れる己の声に酔いしれていた。
 この事件が解決すれば、俺は更に高みへと進める。史上最年少の警視総監だって夢ではない。
 何かにつけて俺を殴りつけてきた、あのクソババアに思い知らせてやれる。
 小学生の頃から、少しでも成績が下がると食事を抜かれ、時には首を絞められ、あんたみたいな出来の悪いのはうちの子じゃないと喚かれた。旧帝の物理学科卒という経歴を、初対面の相手にまず氏名を名乗る前に口上とするような阿呆だった。
 中学生になった俺の背丈が自分のそれを超えた途端、あいつは物理的な暴力の行使を止め、俺におもねり始めた。毅くんが憎くて怒ってるんじゃないの、あなたの幸せを願うからこそママは心を鬼にしているの、という台詞は何千回聞いたか分からない。
 双方向に展開する親子の会話の記憶はない。会話の糸口を探すあのクソババアが口にする話題と言えば、このタレントはどこの大学を出ていて、だからテレビでの受け答えもちゃんとしていて、といったトピックばかりだったが、息子の成績に一喜一憂する自分の妻に、父親は何も言わなかった。夫婦の関係は万年雪のように冷え切っていたし、商社マンだった父はこの国がまだ曲がりなりにも平和だった頃、年間二百日は家を空けていた。その四分の一は他の女の家で過ごしていたことを奴の遺書から知ったが、特に感慨はなかった。むしろ五十日程度に我慢した男の忍耐に感心したぐらいだった。
 京都大学法学部に合格した夜のクソババアのはしゃぎっぷりは、傍で見ていて痛々しさを覚えるほどのものだった。これであなたも父さんみたいに大手商社に進んで幸せな人生を掴むのよ、とまるでそれ以外に人生の選択肢はないような祝福のコメントをくれたが、俺が社会人になって二年目のあの日、東京上空で破裂した核弾頭によって会社を失い、不倫相手だった部下を失い、精神の均衡を失い、貴重だった最後のガソリンを使ってガムテープで目張りした車の中で一酸化炭素によってピンク色に染まっていた父親の人生が幸せだったかどうかは甚だ心もとない。
 国家一種試験に受かり、警察庁への就職を報告した日、物理学科を卒業後高校教師として三十年目の奉職を迎えていたクソババアは、教師特有の知識範囲の異常なまでの狭さをいかんなく発揮し、「京大出て警官になるとはどういう了見だ!」とおよそ十年ぶりにコップを投げつけてきたが、後で誰かから警察官僚という言葉とその意味を教えてもらったようで、やっぱり毅くんは私の子だ、昔からあなたは人と違う何かがあった、と携帯の向こうでポメラニアンのように吠えまくっていた。
 大学卒業後は一度も実家には帰らず連絡も取っていない。向こうからは毎日着信があるが、メッセージは聞かずに削除している。何をとち狂ったか一度松本の暫定警察庁まで俺を訪ねてきたことがあったが、窓口で追い返してもらった。警視総監になって日経新聞から履歴を求められたら、俺はこう言ってやる。母親に愛情を感じた時間は一秒もありません。
 俺の雄姿を明日のニュースで確かめろ。近所中に自慢して歩き回れ。その息子の結婚式に招待されなかったことを陰で笑われている自分に気づくことなく。
 別荘の窓に人質を抱いた男が現れた。背後に走る緊張。署長は自分の胆力を誇示するように数歩前に進んだ。この洗脳国家育ちの馬鹿どもは、日本の警察に歯向かうことがどういう結果をもたらすか、今身に染みて学んだはずだ。こいつらが死刑宣告を受けるのは太陽が東から上るくらいに確実な話ではあるが、取り敢えずかりそめの希望でも持たせてやろう。
 再び自分の声を発散し始めたハンドマイクのスピーカーに銃弾が当たった瞬間もまだ、沖田は喋っていた。
 スピーカーを通り抜けた弾が彼の喉にめり込んだ時に初めて、声が止まった。
 
 警官が一斉に伏せ、ジェラルミンの盾の中に隠れた。
 沼津警察署長は倒れてもなおハンドマイクを握ったまま、彼らの描く半円の径の中心で、赤い血を流し続けていた。誰かが発作的に救援に向かおうとして、左右を固める誰かに止められた。「助からないのは一目瞭然だろう!」
 別荘の中から声が響いた。
「満海人民軍海軍東海艦隊ハスン第一戦隊、中尉のハン・ガンスだ!死にたい者から俺に近づいて来い!」
 誰も動かなかった。
 ガンスは後ろを振り返る。盾として利用していた杉山夫人を抱きかかえながら部屋を横切り、突き飛ばす。夫人は同郷の者が形作る環の中に力なく倒れた。血の気を失った顔は亡霊のように青白く、ぐっしょり濡れた下半身からの匂いが、まだ彼女が亡霊にはなっていないことを証明していた。
 五人が死に、一人が少佐に連れて行かれ、残った人質は十三人に減っている。
「北田さん」ぞっとするぐらい穏やかな声色で、彼はその中のひとりを呼んだ。「俺の隣に来てくれ」
 北田はそこに何らかの回答なり解決策なりが書かれてあるとでもいう風に周囲と眼を合わせ、十の瞳ー七人は眼を逸らしたーから何も得られなかったことを知り、先程よりは若干苛立ちの交じった声を再び聞き、のっそりと立ち上がった。「俺に何の用だ」
 震える声で尋ねる男を真横に立たせて、この格闘技のスペシャリストは平板な調子で喋り始めた。
「あんたが悪い訳ではないが、どうやらここにいた綺麗な女は、無事警察まで駆け込めたようだな。その結果が今のこのザマだ」
 二人は並んで歩き、再び窓際に立った。投光器に照らされ、相手の数はよく見えないが、数人というレベルではないことぐらいは判断できる怒れる男たちの群れが、同時にライフルを構え直す音が闇夜に響き渡った。自分までもが撃たれるような気がして、北田は戦慄を覚えた。
「女はあんたのバイクで町へ向かった」
 それは嘘だ、実はバイクなんて持ってねえ、あれはおまえたちをおびき寄せるための三留の娘の計略だ。しかし彼のその胸中は乾き切った口腔から吐露されることはなかった。
「繰り返すが、あんたに罪はない。しかしこの状況に対する責任は誰かが取ってくれないと」
 正直に告白して命を乞うか、勇気ある殉死者としての道を選ぶか、北田は混乱する精神状態の中で必死に考えたが、どちらの結果に導かれようともどのみち喋れない自分に気がつき、不思議な安堵を覚えた。
 この五年の間に伊豆海村草履集落で起きた、二件の殺人事件。一件は被害者も加害者も自分には何の関係もない奴だった。そしてもう一件の出来事。加害者は村八分だった土屋の甥で、北田が唯一、若い頃から親しくしていた男だった。
 北田自身ガキの頃から素行不良だった。ロクに学校にも行かず、家業の手伝いもしなかった。四十半ばを過ぎた頃、農作業は半年かけて打つハイリスクローリターンのバクチだと定義づけてからは、死んだ親から相続した田畑も荒れるに任せた。同じように穀潰しだった集落の幼馴染と生活のために始めた仕事は、モグリの産廃処理業だった。富士や静岡までトラックで向かい、地元の正規業者が引き取りを拒む各種廃棄物を口止め料込で相場の三倍から四倍の値で引き取る代わりに、中身がどのような物であろうともそれを詮索することはないという彼らのビジネスは、瞬く間に脛に傷持つ各種産業の関係者間で広まり、月に一度トラックを稼動させるだけで残りの日々は遊んでいられるだけの収入を二人にもたらした。
 そして草履の涸れ谷や溜池跡、広大な空き地に汚染と悪臭をもたらした。
 それでも周囲の人間は、それを我慢した。村人たちが従事する農業漁業畜産業に影響を与えぬ場所と頻度を選ぶ程度のたしなみは悪党どもにもまだあり、そうした生業を通して街に住むヤクザたちともパイプを持ち始めたと噂されていた二人に正面切って苦情を述べるだけの気概は誰にもなかった。
 やがて「混乱の五年」が始まった。軽油の高騰で彼らの仕事は頭打ちになるものと周りは期待したが、その金相場並みの油代を負担してでも彼らにモノを運んで貰いたがっている連中は、周辺地域にいくらでもいた。涸れ谷に廃棄された大量のおが屑が春の嵐で舞い散り、残ったゴミの中から出てきた人間の死体を見つけた村人が、とうとう忍耐の限度を覚え、彼の相棒の家に駆け込んだ。その時連中が彼の家に来ていたら、殺人者となっていたのは北田の方だったかも知れない。いずれにせよその夜、一人が死に、もう一人が殺人事件容疑者として逮捕された。
 北田はきっぱりと稼業から足を洗い、充分に溜め込んだ貯金で生活を送る身となったが、既に話し相手は集落に誰一人おらず、とはいえ迂闊な転居はかつての取引相手からのあらぬ詮索を引き起こす恐れがあった。疑わしきは罰せよ、が当時の不文律だった。
 彼自身はあくまでも生活のためにその仕事を始めたという認識しかなく、自分がワルだという自覚もなかったが、村人が自分に向ける怒りはごく正当なものという考えも持っていた。だからこそ三留の娘がトランシーバーの向こうで自分の名前を出した時も、彼はそれを否定しなかった。彼女の打つ芝居に協力することで少しでも多くの人間が助かるのならば、それに協力するのは吝かではなかった。
 そして今、ハン・ガンスの強烈な握力で右肘をひねられ、窓際に立つ男は、恐怖に枯れ切った唇がどうやら一言も言葉を紡ぎ出せそうにないことに、安堵を覚えていた。
 殺したいなら殺せばいい。
 ただ、せめて最後に残った者へ言い訳はしておきたかった。あの時おが屑の中に死体が入っていたなんて、俺も奴も本当に知らなかったということだけは、皆に信じて欲しかった。
 兵士が隣で叫ぶ。
「今から三分以内に、ガソリンを満タンにした車を一台用意しろ!三十秒以内に回答を寄越せ!」
 そして元人民軍の兵士は振り返り、天井の照明を撃った。轟音が部屋の中をこだまし、ガラスの破片が飛び散って床に乾いた音を立てた。ガンスは一歩下がった。外からの投光器をもってしても、暗くなった部屋のどこにテロリストが潜んでいるかが見分けにくくなった。管理官が血を流して横たわっている前沼津警察署長の右手からハンドマイクを拾い上げ、その場の臨時責任者として静岡県警の総意を代弁した。
「君の要求には応じられない。ここは冷静に投降し、正当な裁判を待って、そこで主張したいことを主張しなさい」
 ハン・ガンスはにやりと笑った、とすぐ隣に立つ北田は感じた。
「北田さん」男は言った。
「あんたを解放する。この窓から外に出て、ゆっくり警察どもの待つ場所まで歩いていけ」
 どういうことだ?と尋ねようとしたが、元産廃業者は全く喋ることができなくなっていた。兵士が背中を押してきた。早く行け。
 何が何だか分からなかった。何故自分が助かるのか、何故俺なのか。
 庭に下りる。深酔いしたように自分の歩みには現実感がなかった。本当に足の裏が地面を捉えているのか、それとも浮遊しているのか、そもそも自分は前進しているのか、何もかもが定かでなかった。投光器の眩しさが、そうした感覚を助長させる。一体俺は今どこにいるんだ?
 背中に衝撃が走った。それだけは超現実の感覚だった。前に吹っ飛ばされ、眼の前の風景が反転した。どうやら自分は地面に寝転がっているらしい。芝生の夜露が頬を濡らした。どこかから声が聞こえてくる。
「もう一度言う!車をすぐに用意しろ!これ以上犠牲者を増やしたいのか!」
 ああそうか、俺は見せしめだったのか。北田は薄れゆく意識の中で悟った。不思議と背中に痛みは感じなかったが、とてつもない寒さが全身を襲ってきた。そして強烈な眠気。
 最後の一瞬、北田はあの日の事件以来、自分もまたずっと死にたがっていたことをようやく知った。
 
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