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長編小説「平壌へと至る道」(116/最終回)

「チャンスク!」
 相慶は大声で呼び、彼女は座敷にやってきた。
「ご注文ですか?」
「そうだ、ご注文だ」相慶は朝鮮語に切り替えた。
「チャンスク、俺と結婚してくれ」
「え?」
「この年末をめどに、俺は日本国籍を取得するよ。そして君を妻に迎え入れる。一生俺の隣にいてくれ」
「でも、私は「一生俺の隣にいてくれ」
 議長と伊勢には言葉は理解できなかったが、何を話しているのかは分った。
 そして、彼女の反応も。
 みんなで祝杯を上げた。自身も二度目の新婚生活を送っている朴泰平はリバウンドが絶賛進行中の巨体を震わせ、意外な涙もろさを披露している。
「チョンセンヨンブン!」李昌徳もまた感極まったように叫んだ。
 天生縁分ー韓国の四字熟語で、「天が定めた運命的な縁」という意味になろうか。
 安田は拍手しながらも苦々しくうめいた。
「所帯を持つ以上、俺たちの世界からは更に遠ざかったな」
 喧騒の落ち着きを待って、相慶は平壌から持ち帰ったあのポラロイド写真を改めて周囲に見せ、全員の笑いを誘った。
「本当にアジアのヒトラーだな」

 このプロジェクトを契機に、娘を失った議長の哀しみが少しでも癒えたかといえば、現実には全くそんなことはなかった。兄を奪われた伊勢にしてもそれは同様だった。
 しかし、そんなことはもう気にしても仕方なかった。一生忘れることができない哀しみがあるのなら、一生引き摺っていくしかない。それはそれ、ということだ。俺たちは俺たちのできる復讐を完遂したのだ。

「手紙の内容を朗読してくれ」
「そうだ、もう一度」
「チャンスクは聞いてないだろう?」
「はい、私知らない」
「じゃあ日本語と朝鮮語で暗誦するよ」
「何だオマエ、まだ記憶しているのか」
「勉強で褒められたことのない俺の、一世一代の作文だ。そう簡単に忘れられるか」

『親愛なる首領様
 私は朝鮮民主主義人民共和国の外からやってきた、ある善意の第三者です。昨夜、平壌某所にある首領様のブロンズ像の鼻下に黒ペンキを噴霧し、ヒトラーの髭に見立てて撮影しました。その後速やかにペンキは拭き取りましたのでご安心願います。
 大変悲しいことですが、首領様は独裁を進める専制君主になってしまい、いわば九〇年代のヒトラーと呼ぶべき存在に成り下がってしまいました。
 あなたは自身への忠誠度によって国民を五十一段階に渡ってランク付けし、反対勢力を完全に駆逐し封じ込めたと信じておられます。しかしそれは真実ではありません。核心階層の牙城であるはずのこの平壌で、なぜ私がこのような行為を成功させ得たのでしょうか?
 協力者が無数にいたからです。
 あなたはきっとこの件で、安全部と保衛部に調査を命じることでしょう。その両部内にあなたを心底から敬い慕う者が、果たして何人残っているでしょうか?彼らの協力者にしても、朝鮮人民軍にしても、それは同様です。
 いや、たった一人、あなたに忠誠を誓った者がいました。
 実は昨夜、私は万寿台にある国内最大の銅像を最初の標的と定め、覆面をしたままあの丘に赴きました。
 そこで、名前は分かりませんが、五十歳ぐらいの、恐らくは大佐あたりの階級者でしょうか、ここからは一歩も前に進ませない、と立ち塞がれました。私は短銃を抜き、そこをどけと命じたのですが、彼はこう答えました。 
「殺すなら殺せばよい。しかし俺は死んでもオマエの足は握り続けるぞ。首領様の慈悲によってここは見逃してやる。家に帰ったらもう一度主体思想を学び直し、性根を入れ替えろ」
 あの頑固な男のせいで、最も象徴的な像への落書きは諦めざるを得ませんでしたが、私は内心喜んでもいたのです。こうした『漢』がまだこの国に残っていることを知れましたから。
 首領様。伝説の将軍金日成としてロシアから凱旋帰国された時、あなたは本当にこの国を地上の楽園にしようと考えておられたはずです。国民全員が丼いっぱいの米を食えるような国にする、というあなたの当時の演説に、共和国国民は狂喜乱舞したことでしょう。
 しかし現実はどうでしたか。あなたはいつからか反対意見を述べる者に、傾聴ではなく処罰という手段で応じるようになり、長い年月に渡って数え切れないほど無辜の民を殺戮してきました。あなたが思い描いていた木蓮の花咲く地上の楽園は、禿山の広がる収容所国家になってしまいました。
 今回のこの行為、私の怒りは民衆の怒りです。寛大な度量を、本来首領様がお持ちになっているその度量を、今一度私たちにお示しください。今回の件で俺は本当の民意というものを聞いた、誰一人処罰しない、誰一人調査しない、そう宣言してください。共和国の人民はあなたが憎い訳ではないのです。ただ、昔のあなたに戻ってほしい、と願っているだけなのです。
 あなたの髭が描かれたブロンズ像を、私はポラロイドカメラで撮影しました。像は再びきれいになりましたが、写真は今も、これからも、私の手元にあり続けます。あなたが約束を破り、例えばこの件で誰かが粛清されたという情報が入ってきたとしましょう。
 インターネットという言葉を、お聞き及びのことと思います。これからは電話回線とパソコンを繋げば、世界中の人たちが同じ時刻に同じ情報をそれぞれの場所で、一斉に眺めることができる時代になるのです。粛清のニュースが入ってくれば、あなたのこのヒトラーに見立てた像の写真が、世界中に配信されます。それは地球に住む六十億人の誰かがコピーし、あるいは個人のパソコン内に保存するでしょう。共和国が総力を挙げてその写真を回収しようとしても、それは必ず世界中のどこかで残り、また配信が繰り返され、あなたのメンツを地に墜とすことになるでしょう。
 密かな処罰はおやめください。人間が生きていれば、必ず誰かと繋がっているものです。ひとりの誰かの不審な失踪は、別の誰かの疑念を必ず惹き起こし、それはじわじわと民衆の中に広がっていき、いずれ私の耳にも届きます。誰にも、抗日パルチザンの英雄ですらも、それを止める手立てはありません。それより、あなたが広い心で許容の態度を示せばいいのです。最も簡単で、最も効果的な方法です。
 これからこの共和国が、人々が自由に歩き、自由に話し、自由に笑うことのできる社会へと変わっていくことを心から祈念し、結びの言葉とさせて頂きます。
 善意の第三者より』

 一九九四年七月九日、朝鮮民主主義人民共和国は、初代最高指導者である金日成がその前日、公務中の心筋梗塞で逝去された、と公表した。
 その死亡日の信憑性について、関係者以外知る者はいない。

 了

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