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長編小説「平壌へ至る道」(73)

「白特務上士」
 趙秀賢が呼びかけた相手は、既に自分の処遇を覚悟したかのように青白い表情を強張らせていた。
「はい」
「男の朝鮮語は、どの程度のレベルだった?」
「かなりのレベルでした」
「それでは答えにならない。この国の人民として通用できるぐらいに訛りまで使いこなしていたか、あるいは僑胞のようだったか、ということだ」
 白はうつむきながらも断言した。
「僑胞よりはずっと自然な朝鮮語でした。また奴が買った売春宿の女に尋問したところ、咸鏡北道の羅津や先峰について、何か知っていることはないか、と聞かれたそうです」
 その言葉に張中尉は顔を上げ、咳き込むように被せてきた。羅津の件は昨日の昼、奴に話した。
「どういうことだ?」
「そんな顔をしないでくれ、スヒョンーいや、趙副局長兼捜査官。ちょうどその日、まさに保衛部の本丸から連絡が来たんだ。日本から在日朝鮮人もしくは脱北者の可能性もある男二人が我が国に不法入国し、羅津、先峰の経済特区で何らかの破壊活動を目論む恐れがある、という情報を」
「それは俺の所にも来た。どうせいつものガセネタと取り合わなかったが。オマエはそれをヤマダにぶつけたのか?」
「ああ、あいつが東名旅館の二階で呑気に海鮮料理を食っている時に、不意打ちでな。そこに動揺の色を感じたら、趙捜査官に報告するつもりだった。これは本当だ、信じてくれ」
「その時のヤマダの反応は?」
「落ち着いたもんだった。俺に向かって日本語で話しかけてきた。何か相当に失礼な言葉だったようで、通訳の崔が立ち上がって抗議したほどだ。あとで聞いたところによると、奴は俺が本当は日本語を理解しているのではないかと思い、わざと挑発してきたんだ」
 顔から血の気を失って久しい崔が、隣で頷いた。
「その情報の日本からの工作員とヤマダは同一人物だと思うか?」
 張中尉は首を振った。俺にはもう分らない。
「ただ、ヤマダだって不法入国者だ。全く同じ時期、日本から別の非合法員が潜入してくるなんて出来過ぎた話だ。ヤマダが本当に在日ないし脱北者なら、北訛りの朝鮮語を使いこなしているという事実にも説明がつく。陽動作戦かも知れないが、今回の件と全く無関係とは思えない」
「俺も賛成だ」
 趙の言葉に、中尉は安堵した。それで自分の明日が保障されるはずもないのだが、今の彼はどんな小さな物事にも縋りつきたい心境だった。
「だとすればもう一人の男はどこに消えたのか。ところで特務上士、女はどうした?」
「女、ですか?」
 趙は机をこつこつと苛立たしげに叩いた。
「白トンム、とぼけるのはやめてくれ。我々には時間がない。ジャンマダンの売春宿にいた女だ。証人として当然身柄は拘束しているものと思うが、彼女はどこにいる?」
 白は午前中を共に過ごした部下の兵士を盗み見た。その池下士は一切目を合わせてこようとはしなかった。蝋人形のように生気を失い、ぴくぴくと痙攣するまつ毛だけが、彼の生命の兆候を外部に示している。
「トンム、どうした?」
「ー見失いました」
 周囲が一斉に立ち上がった。どういうことだ?
「チョッパリが裏口から逃げたと聞いて、二人で後を追いました。奴を捕まえること、場合によっては殺害することが最優先と考えたのです。しかし残念ながら見つけることはできませんでした。娼館に戻った時、女も消えていました」
 それは事実に反する証言だった。ヤマダを追跡したのは部下の兵士だけで、その時間、白は女の腹の上にいた。
 
「いく、いくっ!」
 女は弓反りになって、シーツを掴んで放り投げた。白特務上士もその時ばかりは自分の風前の灯火と言っていい命運を忘れかけていた。上司の誰もが征服できなかった生意気で、しかし美貌に恵まれた商売女の中に、今自分は入っている。
「淫売の分際で一人前に感じているのか?」
「いい、いい、やめないで!」
 女は白の脱いだ衣服も掴み、これも放り投げた。一部がガラスの入っていない窓枠から外に消えた。白の腰の動きが止まった。
「どうしたの?」
 女が身を起こしてきた。
「馬鹿、オマエが俺の服を外に放り投げたんだよ!」
「え、ごめんなさい」
 女は跳ね起き、衣服を身に纏った。
「何してるんだ」
「申し訳ないけど、取りに行ってもらえる?そして戻ってきたら、また最初からやり直しましょう。お互い服を脱がせ合うところから」
 そして続けた。凄く上手なので、商売抜きで感じちゃった。
 白特務上士は外に出て、土を払った服を着て、部屋に戻った。
 女の姿は消えていた。
 
 三十分以上経って、部下が首を振りながら帰ってきた。
「駄目です、見つかりません」
 特務上士はパニックに陥った八つ当たりを、池下士にぶつけた。
「ふざけるな!もう一度探してこい!」
「しかし、あのチョッパリを案内したのち師団に戻るべき時刻を、既に過ぎています」
 白は銃を手にして、安全装置を外した。
「反抗する気か?オマエはいつから将軍になった?」
 
 白成範はその最後の行為を今、激しく後悔していた。あれで奴の怒りを買ったはずだ。
 こいつは密告するだろう。
 この国では予感は悪い予感しかなく、それは往々にして当たる。
 池下士が青白い顔のまま立ち上がった。
「白トンムは今、偽証しました。チョッパリを探したのは私だけです。その間トンムはあの淫売と性行為に及んでいました。そして何らかの理由により、私が部屋に戻った頃には女にも逃げられていました」
 湿気が壁を濡らす音まで聞こえそうな沈黙が、部屋を充満した。
 張中尉が咳払いして、その静寂を破った。
「白、今の話は本当か」既に呼称は失われていた。
「ー本当です」
 中尉は趙秀賢に向き直った。
「スヒョンー趙副局長。あいつの処遇については、我が人民軍の問題だ」
「その話は明日以降、内々でしてくれ。今日の間は、彼は必要な戦力だ」
 副局長は冷たく応じた。
「逃亡したチョッパリは、相当な戦闘能力の持ち主だ。そして女も機転が 利く。経歴から言えば疑いなく敵対勢力の一員だ」
 白特務上士、そして下士、君の名は?
「ー池四柱です」
「白トンム、池トンム、そのチョッパリと売春婦は、もともと知り合いだった可能性がある。そうなれば今後行動を共にするだろう。そしてその両名の最新の人相を知っているのは君たちだ。ここまで騒ぎを起こしたからには、彼らはこの町から高飛びせざるを得ない。今から元山駅に急ごう。改札で一人ずつチェックをかけ、この速度戦を完遂し勝利を収めるんだ」
 
 軍事務所に残された通訳の崔は、趙中尉の指示に従って安田に国際電話をかけた。可能な限りヤマダの情報、人着を仕入れておいてほしい、という趙の言葉がなくとも、元々連絡は入れるつもりでいた。とんでもないトラブルを持ち込んでくれた、オマエたちとの取引は今後一切ないものと思え、そう伝えるつもりだった。
 三分以上待たされ、ようやく回線が繋がった。「ヤスダ興産」
「安田を出せ」
「あんたは誰だ」
「金剛山通商の崔だ」
 電話の向こうで数秒の沈黙があった。ちょっと待ってろ。
 更に一分待たされた。
「安田だ。こっちからも電話をかけようと思っていたところだ、俺の送った日本酒は飲んでくれたか?」
 安田にとって、それは想定していたケースで最も可能性の高いものだった。北の崔から電話です、かなり苛立った声です、と部下から報告を受けた瞬間、予定通りに話が進んでいるらしいと悟った。相慶、さすがだな。
「貴様の送ってきた日本酒は、とんでもなく不味かった」
「その酒について、こちらから報告がある。あれはもともとこちらのドッグブリーダーから貰ったものだった」
 イヌ―警察から送られてきた裏切り者だった、という意味だ。
「そういう訳で崔さん、こっちもそんな酒を送られた被害者という訳だ。ところでそのブリーダーは今、投資に凝っているらしい。どこかに確実な出資先はないかと、出発前にしゃあしゃあと尋ねてきやがった」
 イヌは経済特区に向かっているぞ。
「日本酒は一体何の銘柄だったんだ?」
「どうも朝鮮産の米が混ざってるらしい」
「酒の詳細をファックスしてこい、大至急だ」
「おいおい、あんたの会社にファックス機なんてないだろう。回線だって繋がるのか?」
「侮辱も大概にしろ。貴様の国にあって我が国にないものなど、一つとして存在しないんだ」
 崔少尉はファックス番号を告げようとして、思いとどまった。
 電話が盗聴されている以上、日本からのファックスの内容もまた、元山の朝鮮労働党本部に転送される恐れがある。というかむしろ、それが必至だ。
 電話では日本酒の話をしていたはずなのに、なぜここには男性の顔写真が入っているのかと党担当者に詰問された時の回答は何が正解なのか。その進捗の方向性は、文字通り自身の命運を決する。
「なあ、崔さん、ファックスはまあいいんじゃないのか」
 安田の助け舟に、通訳は内心深く安堵した。
「貴様がそう言うのなら、まあいいだろう。とにかくあの不味い酒の特徴を教えろ、もう二度と飲みたくないからな」
「俺だってよく知らないよ。ブリーダーからの貰いもんだからな。三十年もの、と言っていたような気がするよ。もう酒は処分したのか?」
「まだだ。しかし近いうちに処分する。あんな酒を送ってきたんだ、我が社は今後、貴様にチョソン最高級のカニは卸さないこととする」
「まあ、待ちなよ。短気は損気だよ」
 安田の余裕が崔少尉には気になった。
「あの酒は聞いたところでは、水に混じらないらしい。もし海に流したとしても、溶けることなくどうにか日本海を越え、ここに戻ってくるかもな」
「―」
「ところで俺は最近、新しく趣味ができてね」
「何だ?」
「ラジオだよ、毎日聞き続けてみるとこれが意外と面白くてな。ドライブ中も以前はCDであんたたちの言うところの西側の退廃音楽を聞いていたが、今はもっぱらラジオだ。今度俺も投稿してみようかなと思っている」
 ヤマダはいずれ日本に戻ってくる。そちらの情報を回収し、朝鮮中央放送に投稿してやるぞ、と脅しをかけてきたのだ。
「なあ、崔さん、今回は俺たちも被害者だ。これからも仲良く付き合おうや。カニの単価も、少しなら勉強してやるぜ?」
 どう答えるべきか判断できなかった朝鮮人民軍の少尉を嘲笑うかのように、電話は切れた。

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