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長編小説「平壌へ至る道」(104)

 一九九四年五月 平壌 万寿台とその周辺地区
 
「オマエか」
 そう言って車から降りてきた男を、軍服姿の若者は無視した。約束の言葉と違っていたからだ。男も緊張しているのだろう、自分の符丁間違いにすぐ気付いたようだった。
「オマエがヤマダか」
 相慶は答えた。
「あなたが安サムチョル大佐ですか」
「そうだ。乗れ。いや、車の運転はできるか?」
「はい」
「ではオマエが運転しろ。俺が運転することは普段ない。その俺がハンドルを握り、若いオマエが助手席でふんぞり返る図を誰かに見られたら、説明が面倒だ。道順の指示は出す」
 相慶は動こうとはしなかった。そのような話は事前に聞いておりません。
 安大佐は嘆息した。
「俺がオマエを裏切れば、そのお返しが極めて残酷な形で俺自身に押し寄せてくる」
 同じことを趙秀賢も言っていた。だから心配はない、とも。相慶は一瞬の躊躇を振りほどいて運転席へと座った。
 手袋をはめ、キーを回す。
 凱旋門を左に折れ、蒼光通りへと入る。首都を縦断する一番の幹線道路だが、他に走っている車は一台も見かけなかった。車は五分足らずで万寿台に着いた。
「そこを右に曲がれ」
 丘への道に入った。照明に輝く、国土の隅まで見渡しているような金日成の巨大な銅像は、一昨日より、昨日より、闇の中では大きく見えた。
「本当に俺に類は及ばないんだろうな」
「それは趙副局長からも聞いていると思いますが」
 がらんどうの駐車場に車を止め、安大佐は煙草を咥え、火をつけた。その指先が微妙に震えている。ああ、俺も手紙の内容は聞かせてもらった。
「しかしそんな情報伝達方法が本当に実現するのか」
「するのか、ではありません。アメリカでは既に一部の地域で実用化が開始されております」
「俺はコンピューターのことは全く分らないが、そういうものか」
 大佐は完全に納得した様子ではなかったが、己の生存への道筋は、最早見たことも聞いたこともない未来の通信革命にしか見出せなかった。
 相慶は敬語を使い続けた。これから二人で数時間を、下手すれば一夜を共に過ごすことになる。その間、あの若者たちと言葉を交わすことにもなるかも知れない。
 極度の緊張のせいでそれぞれの役どころがいざという時に意識から飛ばぬよう、彼はこの時点から開城から来た従順な中尉であろうとした。
「だが俺に火の粉がかかる可能性はゼロではないだろう?」
「そうならないように最善の手を打ちましょう」
「写真の話は聞いているのか?」
 相慶は安大佐に顔を向け、眉を上げた。
「つまり、そのー俺と次帥の奥さんの」
「聞いています」
 大佐は盛大に紫煙を吐いた。どちらにしても俺に逃げ道はない訳だな。こんなクソのような像のために。
「作戦が成功すれば、大佐は英雄になる可能性の方が高いかと。後は祈るしかありません」
 そう答えながら、相慶は安の言葉を心の針に引っ掛けた。クソのような像?その清掃責任者の分際で?
 こいつもまた、絶対君主の忠実なるシモベという訳ではないのか?
「金中尉」
 大佐は相慶をこれから演じる命懸けの芝居の役名で呼び、彼もまたそれに自然に答えた。はい。
「万寿台の銅像が建てられた時の逸話は知っているか」
「いえ」
 駐車場の向こうに衛兵が立っているが、彼はこちらを一切見ようとしなかった。この車の持ち主を知っているか、こんな夜中にここに来る者がどのような立場にあるのかを知っているか、その両方だろう。
 大佐は前を向いたまま話し始めた。
 最初はこの銅像に金箔を塗ったんだよ。地方じゃ餓死者が続出している、そんなご時勢にな。そして世界中からお仲間を呼んで披露した。その場で中国の鄧小平に一喝されたんだ。やり過ぎだし悪趣味だ、とな。我が首領はメンツを潰され大恥をかいたが、中国に楯突く力はない。金正日宣伝大臣の指示で金箔は剥がされ、銅像を建築した万寿台創作社の責任者が独断でやったことだと結論付けられた。
「創作社の責任者はどうなりました?」
「辛うじて死は免れた。両手の自由と引き換えに。二度と像の設計に関われないようにな」
「なんて奴らだ」
「金日成は愚かな爺さんだが、まだマシな方だ。目くそ鼻くそではあるがな。その息子はもうどうにもならん。思いつきで法律を変え、テメエは一日たりともそこで過ごしたことのない軍の組織を変え、次の日にはそれがまた元に戻っていたりする。不満を言えば終わりだ。十七の時、同じ部隊に入った俺の二十四人の同期は、三十五年で十人が消えたよ」
「ーそうですか」
「趙副局長があの写真コピーを見せつけてきた時、ああ俺の人生は終わった、と思った。不思議なもんでな、恐怖や焦燥を感じたのは最初の数秒だけだったよ。後は妙な安堵だ。死んでこの毎日の緊張とおさらばできるなら、それはそれで構わない、という気持ちが勝った。しかし縛られての投石だけは軍人としての自尊心が許さない。何かあれば俺には青酸カリがある」
 二人は車を出た。町は一国の首都と思えぬほどの静けさだった。
 ゆっくりと広場を横断し、衛兵の横を通り過ぎる。彼は微動だにしなかった。言うまでもなく相慶だけだったらこんな反応ではなかったはずだ。その場合は祥原で会った林檎階層の洪に教えてもらった下水道を歩き、状況によっては見張り兵の背後から暴力の行使を実施しなければならなかった。その成功の確率はどれほどのものだったのだろうか。
 広大な広場、その南北の両端は、赤色旗の下に集う革命戦士群の彫刻で壁が作られ、西には朝鮮革命博物館の横に長い建物が広場を守る要塞の役目を果たしている。東には大同江、その中に浮かぶ中州である綾羅島が、しかしこの闇の中では確認できない。
 それほど、この金日成銅像に当てられた光源は強烈なものだった。
 深夜一時、この照明が落とされると、平壌の街全体も闇に溶けることになる。

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