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長編小説「平壌へ至る道」(77)

 トルクのない木炭自動車は上り坂で途中、四度止まった。相慶はその度に後ろから押し、排気ガスを全身に浴びた。四回目の時、多少は良心が咎めたのか、握手を拒否した男が運転席から大声で話しかけてきた。
「今日は木炭の量が少し足りないんだ。トウモロコシの芯では燃焼効率もこれが限界だ」
 一時間ほどで一人目の中年女性が、その三十分後に二人目が、それぞれ溢れんばかりの荷物を担ぎながら、挨拶もなく荷台を降りていった。
 二人きりになって、相慶は尋ねた。彼女たちは知り合いか?
 チャンスクは首を横に振った。全然話しかけてこなかったでしょ。
「この朴尚民のトラックには伝説があってね。ジャンマダンから帰宅する露天商の乗る車は、高い確率で道中安全部の検問に引っかかるの。現金をポケットにパンパンに詰めた連中を乗せていることは、沿道の誰もが知っているから。それでもこのトラックからは逮捕者が今まで一人も出ていないんだって」
「なぜ?」
「朴が法外な賄賂を渡すからよ。だから彼のトラックは安心だという話が広まり、商売の終わった連中で新坪郡までの道中に家のある人は、この車に乗りたがる」
「それにしては四人だけだぜ。今や二人だ」
「別にジャンマダンの商人は友人同士でも仲間でもない」チャンスクは冷えた口調で告げた。
 彼は自分の評判を知っていて、輸送運賃も他のトラックに比べれば倍近くする。それで商人はその日の売り上げによって、身の安全とコストを天秤にかけながら帰りの足を選ぶのよ。
 男は納得した。なるほどね。
「でもね、今日は違った」
 チャンスクはそう言って、両膝を抱きかかえた。トラックのヘッドライトを除けば山道に余計な灯はなく、空は溢れんばかりの星空だった。
「私が乗ることを知って、他の人たちはやめたの」
 相慶は察したが、彼女が自分でそれを話すのを待った。
「ジャンマダンは市場経済の形態をとっているから、本来は違法だよ。でも金日成がこれを渋々認めた。配給制度なんてとっくのとうに破綻しているものね。でもそいつらが売っているのは野菜だったり卵だったり煙草だったり、お天道様の下にさらけ出しても恥ずかしくないものばかり」
 チャンスクはそこで空を見上げた。一旦は星空を覆ったトラックからの煤煙が、音もなく闇に溶けていく。
「私はね、物乞いや泥棒と一緒なの。この国に存在せず、いてはならない人間。だから私をもし安全部の奴らが見つけたら、たとえ法外な裏金をもらったとしても、お咎めなしという訳にはいかない。もしかしたら私がレイプされてそこら辺に捨てられて、あるいは撃ち殺されてそれで終わり、周りの乗客は何も見なかった、となるかも知れない。もしかしたら売春婦と同じ車に乗ったにもかかわらず、それを当局に報告しなかったことで全員が収容所送りになるかも知れない。それは誰にも分らない。分らない未来に賭けるのは怖いでしょ?特にこんな国では」
 頭上にそびえる山の端から月が出てきた。こんなに明るい月光を見たのは、相慶にとって初めての経験だった。
「二人のおばさんがそれでも、このトラックを選んで乗ってきてくれた。涙が出そうになったよ。あなたに煙のことを聞かれた時、私は敢えて答えた、『売春婦にそんな難しいこと聞かないで』と。私のことを知らないのなら、後で迷惑をかけたくなかったし。でも彼女たちは車を降りなかった。今更トラックを変えるのも面倒だ、という程度の理由だったかも知れないけれど、ともかく降りなかった。おばさんたちが必死に私なんか目に入らないという芝居を続けていたのは、仕方のないこと」
 相慶は女の肩に手を回し、その頭に鼻を近づけた。頭髪は激しく臭ったが、どんな香水で塗り固めた女よりも魅力的だと思った。
「朴尚民は勇気があるな」
 チャンスクは顔を上げた。「なぜ?」
「君を乗せるということは、彼も火中の栗を拾うことになる。でも応じてくれた」
「それは簡単よ」女は相慶の腕を振りほどいて、舌を出した。月明かりの下、彼女の赤い舌が艶かしく映えた。
「百ドル払うと言った。あと、安全部に途中停められた場合、賄賂の代金も後で肩代わりする、と」
「百ドル?」
「よろしくね、金持ちの僑胞さん」
 相慶は笑った。任せておけ。
 車はあえぐように山道を登り続ける。「夜は冷えるな」
「そうだね」
「今のところ検問はない」
「みんな元山に集められているんじゃない?」
「新坪郡はあとどれくらい?」
「私も来たことがないから正確なことは分らない。でも三十分ぐらいかな。あのさあ」
「うん?」
「ちょっと言いにくいけれど、もう一つお願いがあるの」
 チャンスクは相慶の腕に手を添えた。男は尋ねた。何だ?
「もし途中で検問があったら、そしてどんな策も通じなかったら、相手を殺してほしいの」
「ー殺す?」
「さっき元山で保衛部員を縛り上げた時の、オッパの台詞は覚えてるよ。でも私も道すがらいろいろ考えた。あなたは元山にある造船会社の職工だか朝鮮人民軍の兵士だか、いずれにしても金時計まで持っている核心階層の人間で、私も元山の党が運営するエリート層子女向け幼稚園の教師。そして二人は平壌に向かう新婚旅行の夫婦。なぜハネムーン最中の党に忠実なはずのカップルが、よりによってジャンマダンの商人御用達のトラックで移動中なのかを問い詰められたら、今日はなぜか元山駅が混乱していて列車への乗車が叶わなかった、と言えば、その場は切り抜けられるかも知れない」
「だろうね」
「そしてあなたは、知識もないし頭も悪いけど、度胸だけは人一倍ありそうだし、堂々と私の噓に口裏を合わせてくれるような気がする」
 相慶は苦笑した。褒める時はちゃんと褒めてくれ。
「朴尚民がどっちに転ぶか分らない」
 女の言葉に、男は言葉を失った。
 これがこの国で生きていくということなのか。
「ーそうか」
「あの保衛部員を空き地に捨てた時は、私たちの他には誰もいなかったし、町中だから隠れる場所はいくらかあった。でもこの道中で連中とトラブルになったら、こんな田舎だもの、逃げ道はない」
「ー分った。俺のできることをするよ」
 トラックが停車した。
 運転席から男が降りてきて、言った。終点だ。これ以上は俺の身分では進めない。
「検問はなかったな」
 男は肩をすくめた。今夜は町が騒々しかったからな、そっちに集められたんだろう。こんな夜もあるさ。それよりー
「分っている」
 相慶は百ドルを渡した。朴尚民は札を月に向かってかざし、本物かどうかを見極めている。
 そして今度は、握手を求めてきた。ちょっと話が、男の唇がそう動いた。
 女をトラックの横に残し、二人の男は道の端まで歩いた。

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