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「セクシー」と「ダンス」と

十代の頃、南米の踊りをしていた。抑圧された感情を解き放つ、鼓動のようなリズムが好きだった。今は消えた素人の写真投稿雑誌で、その踊りのコスチュームの接写特集があるらしいと聞いたときには、いろんな眼差しを実感してゾクっとした。

ライフステージが変わった今も、1年に1度くらい、人の前で南西の国の踊りをしている。誰かのためでなく、日々の些細な楽しみを少しずつ集めて生きる糧にするために。「痛々しい」と思われようが思われようが、そうせずにはいられないから踊る。
 
非日常から日常に戻れば、いくらでも替えのきく仕事や、自分しかやる人のいない雑事に飲み込まれるのだから。
 
見ている人は誰も私のことを知らない。一緒に踊っている優しい人たちの属性もフルネームも知らない。取引先の人たちや私が所属するコミュニティの人たちには、踊っていることを話していない。
 
きっと、私にとっての「踊り」と同じような「何か」を胸に秘めている人は少なくないだろう。「何か」を隠し合って、人と人は関わり合って生きている。
 
そんな生活を送ってきたから、コミックの『セクシー田中さん』に共感せずにはいられなかった。
 
言葉の力が過信され、言葉の使い方1つで揚げ足を取られるこの社会で、言葉を用いて非言語表現のテーマを起点とした物語が展開されている。このために、原作者の芦原先生が鍛錬に鍛錬を重ねた技術とバランス感覚と感情をフル稼働していることが伝わってきた。
 
言葉を交わして、人は人を知ったつもりになることがある。言葉はすぐに伝わる。でも、全部は伝わらない。言葉は誰かを縛り付けたり、傷つけることもある。
 
一方、非言語の表現が、人が上手に隠しているつもりの「何か」を引き出し、解き放つこともある。表現がうまいも下手も関係ない。痛々しいとか、カッコいいとか関係ない。そうせずにはいられずに表現したその先に、自分や誰かの新しい一面に気付くこともある。
 
『セクシー田中さん』の物語が進むと、「好きになれない自分」と「紋切型のイヤな人」の愛すべきところが引き出されていく。登場人物の彼女たち・彼たちとは属性も悩みも違うけれど、泣けた。笑えた。人が愛おしくなった。ときどき日常がしんどい私にとって、非日常ダイブ先の1つになっていた。
 
手を酷使して、心を駆使して、多方面の読者の心を推し量り、伝え方の試行錯誤を重ね、平面な紙や電子書籍の上で登場人物たちを躍動させ、たくさんの読者の心の嵐を凪の状態に変えてきたであろう原作者の芦原先生が直面した悲しみや徒労を想像してもしきれない。
 
悲しいことに、この2週間のネット上の罵詈雑言の濁流は、別々の価値観の人たちがじっくりゆっくり溶け合う、先生が描いた世界とは対極にある。
 
「~かもしれない」が「~である」に勝手に変換され、その過程で発生した熱量高い怒りがまき散らされ、あちら側の人がそちら側の人を自分が考える型にはめ、あちらもそちらもこちらも同じような単語を使って叩き合う。
 
心と命を削って生み出された1つの言葉が深読みされたり、無視されたり、婉曲されたりして真意が伝わらなかったら、別の表現で心が通う場所を夢見ずにはいられない。
 
そして、誰かが心と命を削って生み出した何かが、大きな組織から軽視されずにしかるべき敬意と対価が払われる世界を願わずにいられない。


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