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反日のエロス~韓国の同化願望、ウリナラの『太陽がいっぱい』(前編)

日本なりすまし商法

 韓国の「大韓貿易投資振興公社」(KOTRA)が発刊した「2009年 国家および産業ブランド報告書」によると、北米欧州でサムスンを日本企業だと思っている人が約3~4割に達しているとのことで、誇り高い韓国人を憤慨させているそうです。これに関しては日本人の私もあえて彼らに同感であります。充電中に突然爆発するような欠陥スマホを日本企業の製品だなどと思われるのは心外至極です。
 そもそも、サムスンをはじめ韓国企業は、欧米に進出する際、CMや広告に、桜や力士、忍者、富士山といった、明らかに日本をイメージさせるキャラクターや意匠を積極的に使い、日本ブランドに擬態することで市場の認知を得てきました。現代自動車などはそのエンブレムからしてホンダ車のHをそのまま斜体をかけただけのあからさまなパクリに見えます。そこまで、日本企業のブランド・イメージに便乗して商売をしておきながら、今さら、日本企業と間違えられるのは困るというのもずいぶんと滑稽な話のようにも思えますが、これが韓国なのです。日本が嫌いといいながら、その嫌いな日本になりすますのが彼らなのです。

現代自動車の広告に使われた小錦(おそらく無断使用)
なんと、彼らが「戦犯旗」と呼ぶ旭日旗まで。

 韓国は極端な輸出主導型の経済構造にあります。製品を作って外国に買ってもらわないことには、ただちに国の経営が立ち行かなくなってしまうのです。その韓国の主な輸出産業は何かといえば、スマホ、家電、自動車、造船、鉄鋼といったところでしょうか。これらは韓国がもともと得意にしていた、あるいは独自に切り開いた分野ではむろんありません。日本の技術協力、あるいは技術の剽窃なくしては、産業として成立しなかったものばかりです。しかも日本企業が市場まで開拓してくれているのですから、韓国メーカーとしては日本ブランドにまぎれる形でこれに割り込めばよく、リスクは極めて小さいわけです。さらに彼らにとってラッキーだったのは、円高による日本企業の長期低迷でした。輸出不調に苦しむ日本を横目に、着実にそのシュアを奪ってきたのです。
 韓国のこのやり方をことさら非難するつもりはありません。売れた者勝ち、それが資本主義の原則だからです。将来の競争相手になるのを知りつつ、親切丁寧に技術を提供してきたお人よし日本がバカだったということに過ぎません。やられたらやり返せばいいだけの話なのです。現に、アベノミクスによる円安攻勢で、輸出頼みの韓国経済は今や青色吐息の状態です。同じ価格、似た商品ならば、最後にモノをいうのはブランド力も含めた信頼性、これもまた資本主義の原則です。
 しかも、韓国のすぐ後ろを、さらに安価なコピー商品を売る中国が追いかけてきています。品質と価格で挟み撃ちにあっている韓国企業、もはや活路さえ見えない状況です。

在外韓国人の擬態文化

 韓国の日本便乗商法は製造業に限りません。たとえば、日本のマンガが世界で人気とあれば、韓国はマンファなるジャンルをでっちあげる、J-POPが流行れば、K-POPなるものをぶつけてくる、フランス・パリ郊外でJAPANエキスポという日本のマンガ、アニメを中心としたサブカルチャーの祭典が毎年開かれ、ヨーロッパ中から来場者があると知れば、「韓国ブースも作れ」と割り込んでくる、という按配です。

JAPANエキスポに突如登場した韓国ブース。

 さらにいえば、お得意の起源捏造。「ソメイヨシノは済州島原産」から「寿司は朝鮮で生まれ、明治時代に日本へ伝わった」、あるいは「日本茶道の源流は朝鮮の茶礼(サレ)」、「韓国の剣道(コムド)が日本の剣道になった」などなど。特に、最後の「コムド」のように、日本語を無理やり韓国語読みに置き換えて「本家」を主張するというのもひとつのパターンと化しているようです。「ユド(柔道)」に「ハップキドー(合気道)」などがこれに当たります。そういえば、先の「マンファ」も「漫画」の韓国語読みでした。
 アメリカ・ロサンジェルスの名物でもある日本人街リトル・トーキョーは近年、韓国系移民の流入激しく、今ではハングルの看板が立ち並ぶ、まるでリトル・ソウルの様相を呈しているそうです。韓国系移民からすれば、この地でゼロから韓国人街を作るより、100年の歴史があり、地元の人にも認知されている日本人街(リトル・トーキョー)をそのまま乗っ取ってしまった方が何百倍も楽なのです。また、欧米にある寿司、日本食レストランの相当数が、中国、韓国人の経営するナンチャッテ日本レストランだといわれています。
 このように、日本のブランド・イメージに便乗、あるいは擬態する、日本文化のオリジンを主張する、日本になりすます、日本に取って代ろうとする、――こういった韓国人の一連の精神構造をどう説明したらいいでしょうか。

アメリカのサンチャゴにある、その名も「独島寿司」。ふざけるな!と思ったのは私だけではないはず。

 憧れのスターやスポーツ選手の髪型や服装を真似てみる、などということは誰でも経験があることだと思います。どんな芸術家も出発は誰かの模倣です。人は基本的に嫌いな人間の真似はしません。好きだからその人になりたいのです。ということは、韓国もまた日本が好きだということになります。嫌いだ嫌いだといいながら日本に憧れているのです。「好きだからこそ嫌い」という屈折した心理が働いていると思います。

福田和子事件の謎

 松山ホステス殺害事件といっても「はて、どんな事件だったっけ?」と首を傾げる人でも、福田和子という名は記憶のどこかに残っているのではないでしょうか。
 1982年(昭和57年)8月、愛媛県松山市の元ホステス・福田和子(当時34歳)が同僚のナンバー・1ホステス(31歳)を被害者のマンションで絞殺、現金や貯金通帳を奪って逃亡した事件です。和子は全国を転々としながら、数度の整形手術で顔を変え、名前を使い分けては、警察の追っ手をかわし続けました。1997年(平成9年)7月、福井市に潜伏中、通報によって逮捕されたのは、時効成立のわずか21日前のことでした。警察が懸賞金を提示した最初の事件であり、時効成立前の97年には、TVのワイドショーなども頻繁に情報提供を呼びかけたことで当時は大いに話題になったものです。
 捕まった後も、次々と明らかになる和子の犯行後の大胆不敵な行動の数々がTVや週刊誌の格好のネタとなりました。和子は、殺害した同僚Yさんの家財道具一切を当時の愛人との密会に使っていたアパートに運び入れ、彼女の服や装飾品はむろんのこと下着まで平然と身につけていたといい、女性コメンテーターなど、和子のそんな"神経の太さ"に「信じられない」を連発していたものです。おそらく視聴者の多くも同様の感想をもったと思います。

福田和子逮捕を伝える号外。大衆の関心の高さがわかる。

当時、私はそれらの報道を半ば冷めた目で見ながら、この事件の深層に潜む"あるもの"を感じずにいられなかったのです。
 だいたい、この事件、動機が今ひとつはっきりしませんでした。彼女のような、大胆かつ細心な神経をもち、15年にもわたって警察の捜査を煙に巻くほどのしたたかな女と、犯した犯罪の短絡性が、どうにもストレートには結びつかなかったのです。彼女の罪状は強盗殺人でした。これは無期懲役または死刑に当たる重罪(刑法第240条)です。わずか300万円程度の預金通帳欲しさの犯行と考えるとあまりにも算盤勘定が合いません。
 私は和子と被害者のホステスYさんの間に、二人しか知りえない特別な関係があったのではないかと直感していたのです。

ホモセクシャル映画

 福田和子逮捕の翌年の1998年、フランスを代表する美男俳優のアラン・ドロンが引退を宣言します。この何の関連性もないだろう二人の人物が、私の中では、おぼろげにひとつにつながっていました。
 当時、既に日本の映画ファンにとってもドロンは"過去の人"でしたが、彼の作品を通してフランス映画の洗礼を受けた私には、やはり引退の報は感慨深いものがありました。好きな作品は沢山ありますが、あえて一本挙げるならば、やはり彼の出生作でもある『太陽がいっぱい』(60)です。

『太陽がいっぱい』。ニーノ・ロータのテーマ曲でも有名。

 お話はいたってシンプルです。金持ちのドラ息子フィリプ(モーリス・ロネ)と彼の親友で、彼に何かといじめられながらも従者の如く付き添う美貌の貧乏青年トム(ドロン)、これにフィリプの恋人マルジュ(マリー・ラフォレ)を加えた3人が地中海をヨットでクルージングします。美しい恋人を見せつけながら、ことあるごとにトムに屈辱的な仕打ちをするフィリプ。トムの心に次第に殺意が芽生えます。トムの仕掛けでフィリプと痴話げんかを起こしたマルジュがヨットを降り、フィリプと二人きりになることに成功したトムはついに洋上で彼を刺殺し、その死体を海に捨ててしまうのです。
 陸に戻ったトムは、フィリップの筆跡を真似、偽の身分証明書を作って、(つまりフィリプになりすませて)財産を奪います。そして、恋人を失い(事実はトムに殺され)、傷心にあったマルジュのハートまでゲットするのです。完全犯罪、トムにとってすべてが上手くいくはずでした……。

「GOKUH」(98年6月号)

 私は、ドロンの引退宣言に合わせて、『福田和子はアラン・ドロンだった』と題する原稿用紙にして5枚程度の短いエッセイを「GOKUH」(98年6月号)という雑誌に寄稿しました。手前味噌の感もありますが、ここに少し引用させていただきます。
《かの淀川サンに言わせると、この映画のドロンとロネは潜在的なホモ関係にあるという。そう言われてみると、暴君な若殿にマゾヒスティックなまでに仕えるドロンの、雨に濡れた子犬のような瞳、そこに宿る卑屈な色っぽさが理解できる。子供のころにこの作品を観たときは、奇異にしか映らなかった、ロネのシャツを着たドロンが鏡の中の自分にキスするシーンの意味するところも……。》《ドロンはなぜロネを殺したのか。財産? 女? それも二次的な理由に過ぎない。》《無知で無力な"彼"にとって「彼」になることが、唯一の愛の具現だったのだ。なるほど"彼"はラフォレ演じるマルジュを愛していたが、それは「彼」の女だったから。その意味ではシャツと何ら変わるものではない。》
 ここでいう、"彼"とはドロン扮するトム、「彼」はロネが演じるフィリプを指します。「淀川サン」というのは説明するまでもなく、映画解説のパイオニアであった映画評論家の淀川長治氏。私の敬愛する文化人(この言葉はあまり好きではありませんが)の一人です。氏は日本の評論家の中でもいち早く、そして、おそらく唯一、この映画のホモセクシャルな要素を指摘された人物です。なんでも氏によれば、監督のルネ・クレマンはゲイで、実際この作品制作中はドロンにご執心だったとか(関係があったという説も)。私も淀川サンのこの指摘がなければ、福田和子の事件を単なる小金目当ての愚かな犯罪としか認識できなかったかもしれません。
 私はエッセイをこの言葉で締めました。
《逃亡の果てに、幾度も整形手術を繰り返していた福田和子。彼女が本当になりたかった顔は、きっとたぶん……。》 

福田和子の整形の遍歴。

 発表媒体がアダルト系男性誌だったこともあり、私のつたないエッセイの内容について他メディアが拾い上げてくれるようなこともありませんでしたが、その後の公判(2000年8月)で和子の弁護士から、彼女と被害者Yさんが同性愛の関係にあったことが明らかにされたときは、「やはりそうか」と一人悦に入ったものです。それと前後するように、写真週刊誌等で、和子が整形をする際、無意識のうちにYさんの顔に似せているなどの指摘もあり、それを読んだときはさすがにちょっと怖いくらいでした。また、真偽のほどはわかりませんが、二人は単なるレズビアンではなくSM関係で結ばれており、殺害はSMプレイの延長上で起こったことだとする雑誌記事も目にしたことがあります。
『太陽がいっぱい』の主人公トムも現実の福田和子も、殺害した相手に対し、同性愛の感情とそれに伴う同化願望をもっていました。和子の、被害者の装飾品はおろか下着まで身につけるといった一見異様な行為も、先に紹介したトムがフィリプのシャツを着る鏡のシーンと符号するのです。

『太陽がいっぱい』より。フィリップ(ロネ)になりきった鏡の中の自分に接吻するトム(ドロン)。

 フィリプが何気なしに見せつける白亜のヨットも可憐な恋人も坊ちゃん育ちらしい天真な傲慢さも、トムにはひたすらまぶしいものに映ったに違いありません。まるで地中海の太陽のように。
 福田和子のホステス時代の写真、つまり整形前の写真を見る限り、お世辞にも美人とは程遠い顔立ちで、しかも既に4人の子持ちでしたから、体の線などもだいぶくたびれていたことでしょう。反面、いわゆる男好きのする甘え上手、話上手のタイプだったらしく、彼女目当てで店にくる客も多かったといいます。田舎町のクラブということもありますが、お店では、ナンバー2か3、あたりのポジションは常に確保していたようです。現に当時、夫の他に愛人がいたのは先に記したとおりですし、逃亡中も何人かの男と同棲しています。金沢市では老舗和菓子屋の主人の内妻に納まり、2年8ヶ月の間、店を切り盛りしていたといいますから、人当たりのよさは想像ができます。ホステスとしての彼女に欠けているのは、「美貌」だけでした。一方、殺された同僚ホステスYさんは誰もが認める美人だったといいます。
 
日本というシャツを着た韓国

 韓国の日本擬態行為、ありていに言うところの「なりすまし行為」も福田和子や『太陽がいっぱい』のトムのケースのような、性愛的同化願望という視点から見るとよく理解できるのではないかと思います。
 このタイプの同化願望のベクトルは通常、下位の者から上位の者へ、持たざる者から持てる者へと向かいます。下位な者が上位にいる者に自己を投影し、それを拠りどころに、上位者に自分を似せていくことから始まるのです。運動部の先輩後輩など、擬似同性愛的関係ではよくあることです。しかし、いずれ自分と相手とは別人格でしかないことを悟り、自然と再分離(異化)していきます。「先輩は先輩、俺は俺」です。と同時に擬似同性愛関係も解消され、異性愛への移行が自然に行われます。
 しかし、中にはこの分離が上手くいかず、同化を進めるあまり、性愛の対象である上位者になり代わろうとする衝動が芽生えることがあります。性愛対象者と自己の境界がないという意味では、多分に自己愛的な性衝動ともいえるかもしれません。韓国の「日本なりすまし行為」はまさにこれです。
 なぜ、韓国が、日本のブランド・イメージに擬態するのか。商売がやりすいからという現実的な問題だけでは決してその答えは浮かびません。日本というシャツ(下着)を着ることによって、鏡の中の自分に「日本」を見つけたいためです。鏡の中の「日本」と接吻しているのです。
 剣道や茶道のルーツを捏造するのも、根は同じといえます。彼らにとって、剣道や茶道は、愛するフィリプが所有する白亜のヨットや可憐な美女に他なりません。韓国が欲しいのは、あくまで世界に認められた「日本の」剣道や茶道であって、単に、「剣術を競技化した武道」や「茶を点てる作法」では意味がないのです。
 幼稚園児ぐらいの小さな子供が、「○○ちゃんがもっているから欲しい」という理由でおもちゃをねだるとき、それは意識の中で、「○○ちゃん」と同化したいと思っているからです。そういう子はたとえば、お絵かきの時間でも、○○ちゃんの絵を真似たそっくりな絵を描きます。
(後半に続く)

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(初出)
『韓国呪術と反日』(青林堂)


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