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変態さんよありがとう⑦~真性レズビアンの声

 もう亡くなってしまったが、林芳一さんというカメラマンがいた。彼が被写体に選んだのはいわゆるストリップ劇場の踊り子さんたちである。ストリップ小屋といえば、昔は地回りなどともつながっていて、林さんが出入りを始めたころはまだまだ閉鎖的な世界だったこともありアポひとつ取るのにも大変だったという。怖い目にも遭いながら、独自の粘りと真摯な態度で、小屋主や踊り子さんたちとの信頼関係を築き上げ、その道の第一人者となった人である。
 とはいえ、本稿の主役は彼ではない。林さんのインタビューを兼ね同行取材をさせてもらったときのお話から始めたい。
 場所は都内某所のヌード劇場。すべてのショーが跳ねたあとだから、時計は午後10時を少し回っていたと思う。その日の林さんの被写体はメルモちゃんという踊り子さんで、レズビアン・ペアの片割れである。彼女の相方は写真、インタビューともにNGということなので、彼女単体での撮影となった。むしろこちらとしては好都合だった。メルモちゃんの方がずっと可愛かったし、失礼ながら相方さんは短髪で容姿もそれほどでもなく少々トウも立っていた。ふたりで並んでいてもこちらとしては、絵的にそんなに嬉しくないのだ。
 とはいっても、あくまで僕らが紹介したいのは、林さんの仕事である。メルモちゃんを撮影している林さんの様子を僕らが撮影するという構図だ。
 メルモちゃんが可愛いといったが、どういう可愛さかといえば、当時の流行り言葉でいうところのブリッ子。カメラを向けられると、アイドル笑顔満開で、言われなくても自然とポーズも出る。ヒラヒラつきのミニドレスがよく似合っていた。ストリップ界の新時代をある意味象徴するような女の子である。踊り子さんに追っかけファンがつくという現象もこの頃だったような気がする。
 そんなことを思いながら、林さんの仕事を見ていると、背中のあたりに射るような鋭い視線を感じた。振り向くと、舞台の袖から、例の相方さんがこちらを睨んでいるのである。何か睨まれるようなことをしたかなと思って、今一度、彼女の視線の先を確認したところ、それは僕ではなくメルモちゃんに向けられたものだった。睨むというより、監視しているといったほうがいいのかもしれない。
 こいつぁ本物だ。直感的にそう思った。相方さんは筋金入りの真性レズビアンなのだ。メルモちゃんをそっちの道に調教中なのだが、まだ完全ではない。男にブリッ子ポーズで媚を売る術を知っているメルモちゃんのことが、気が気ではないといったところだろうか。林さんがどこまでこのペアの関係について知っていたかはわからない。
 僕がなぜ気がついたかといえば、昔、母からよく似た体験談を聞かされたからである。母は若い頃、日劇ダンシングチームのダンサーだった。一家の働き手である父親(僕にとっては祖父)を失くし家族を支えるたねに泣く泣く退団、銀座に出るようになったが、ある日、激励を兼ねて、仲の良かった友人の楽屋を訪れたという。そのときドアの向こうから浴びた強烈な視線が、僕の受けたそれと同質のものだったようである。やはり、その視線の主は、友人が告白するところの彼女のパートナーだった。日劇といえば、女の園。母も在籍時には、何度か先輩からその手のお誘いがあって逃げたという話も一緒にしてくれた。
一般に、異性愛者よりも同性愛者のほうが嫉妬深いといわれるが、あながち嘘ではないと思った。やはり、一度パートナーを手放してしまうと、次を見つけるのに苦労するということもあるからだろう。
 おそらく、メルモちゃんの相方さんが、林さんを含め僕らを遠ざけたのは、男がそばに寄るだけで生理的嫌悪感を覚えるタイプの強度のレズビアンだからに相違ない。ならば、なぜ男の視線を浴びるヌード・ダンサーという商売を選んだのか不思議に思う読者もいるかもしれない。
 その昔、桐かおるという伝説のレズ・ストリッパーがいた。春日トミという踊り子が彼女の公私にわたるパートナーで、二人そろって日活の映画に出演したこともある。逆に、ストリップという閉鎖的な世界ゆえの連帯感という形で、結ばれるカップルもいるのかもしれない。ストリップもまた、ある種、女の園だからだ。
 その桐かおるにこんな伝説がある。レズビアンなんてしょせん看板だけだろうと高をくくったある社長夫人が、彼女をお座敷に呼んで試しに関係を結んでみたところ、女の体のツボを知り尽くした桐の巧みなテクニックのとりことなり、以後、総額でン千万単位の金を貢ぎ続けたという。

伝説のレズビアン・ストリッパー桐かおる。

 実をいえば、僕が雑誌で扱ったヌードモデルでも、真性、バイ問わずレズビアンの気のある子が何人かいた。そういう子の撮影はやはり気を遣う。男ばかりの撮影隊で、今いったような嫌悪感をもたれては困るからだ。最初からその趣味がわかっている場合は、女の子同士で絡んでもらうからまだいい。一度、保健室の先生と女子高生という設定で真性レズの女性を使ってみた。彼女が先生役である、カメラを向ける前から、女子高生役の女の子(彼女はノンケ) の髪を梳かしてあげたり、実にいがいしく(?)世話を焼いているので、感心した覚えがある。まるでわれわれのことなど目に入っていないようだった。
LGBTなんて言葉が独り歩きしている昨今、「体は男でも心は女だから、女風呂に入れろ」と主張する輩もいるようだが、当のL(レズビアン)にとってはいい迷惑どころの話ではない。
 やはり、ある真性レズの女性がしみじみと言っていた。
「外出先で自分がほっとできる場所は、男が絶対入ってこないデパートの女子トイレ。それから、年に何度か行く温泉宿の大浴場ね」
 喫茶店でのインタビュー。ひとつテーブルで向き合っていたが、男の僕に対して彼女が張った透明なバリアーに気づかずにいられなかった。面と向き合いながらも、100メートルも遠くにいる感じだ。
 そんな彼女の安らぎのスペースに「体は男だが心は女」がずけずけと入り込んできていいのだろうか。
 イデオロギーに先行したLGBT理解論が、果たして本当にLGBTに寄り添ったものであるかは、はなはだ疑問なのである。
 

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