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『死の賛美』と情死ブーム考~尹心徳に捧ぐ

大正末、一枚のレコードが朝鮮大衆歌謡の幕開けを告げた。あまりにも暗いその内容は、歌う歌手・尹心徳の心中事件とあいまって伝説となって今に残る。この曲を水先案内人に、当時の朝鮮インテリ青年の間に蔓延していた情死ブームをひもとく。


デカダンの華・尹心徳

 併合時代の朝鮮エンタメの歌手の中でもっともデカダンの香りを漂わせていたのは、尹心徳(윤심덕/ユン・シンドク)であろう。彼女が1926年(大正15年)に発表した、その名も『死の賛美』というレコードは黎明期の朝鮮歌謡界にあって20万枚の大ヒットとなった。
 メロディはヨシフ・イヴァノヴィチの『ドナウ河のさざ波』のA メロをそのまま借用。作詞は不明となっているが、おそらくは尹心徳自身によるものだろう。

荒れた広野を 駆ける人生よ あなたはどこへ行くのか
寂しい世の中 険悪な苦海に あなたは何を探そうというのか
涙でできたこの世の中 私が死ねば それまでだ
幸福を探す人生よ あなたが探すのはただ悲しみ
笑うあの花と鳴くあの鳥たち その運命もみなひとつ
生に熱中した哀れな人生よ 刃の上で踊りを踊るがいい
涙となったこの世の中 私が死ねば それまでだ

尹心徳。上野の音楽学校(現・東京芸大)の卒業記念で『人形の家』のノラを好演、帝国劇場からスカウトの声がかかるほどだった。イタリア留学を夢見ていたが、経済的な理由で断念。有島武郎と波多野秋子の心中に衝撃を受けていたという。

 人生の喜びも楽しみもすべてうたかたのことと全否定し、ただ死によって無に帰するのみという内容の、とてつもなく救いのない歌だ。
 この曲のヒットの最大の要因は、歌唱した尹心徳自身がレコーディング直後に、妻子ある劇作家と心中してしまったということが大きい。当初、彼女はこの曲を吹き込む予定はなかったが、ある日、突然思いついたように彼女は譜面をもってスタジオに入っという。レコードは彼女の死後に発売されることになったが、誰もがこの曲を彼女の“遺書”であると認識したし、商魂たくましいレコード会社も半ばそのように宣伝した。

「尹心徳嬢決死の絶唱」「決死の独唱」の惹句もすさまじい。ニットーレコードは、義太夫などの邦楽を主力としていたが、洋楽・流行歌への展開には出遅れていた。それだけに同社の尹に対する期待も大きかった。

 尹心徳は朝鮮総督府の官費留学生に抜擢され青山学院を経て東京音楽学校(現・東京芸大)で声楽を学んだ。朝鮮におけるソプラノ歌手の第一号だといわれている。だが、クラシックだけでは食べてはいけず、帰郷後は音楽の教師をしたり演劇の舞台に立ったりして生活の糧としていた。大衆歌謡を歌うようになったのもその延長線であった。

朝鮮版『暗い日曜日』

 劇作家・金佑鎮(キム・ウジン)と出会うのは、彼女が演劇に手を染めていた関係からかと思われる。金は全羅南道出身の地主の息子で、熊本農業学校を経て早稲田大学の英文科で戯曲文学を学んだ秀才。音楽にも通じており、心徳と出会ったころは新進の劇作家として注目を集める存在だった。すらりとした長身、内地帰りらしい垢ぬけた雰囲気に心徳もすっかり魅せられてしまったようだ。とはいえ、先にも記したとおり、金には若くして娶った妻とふたりの子供がいた。早婚は当時の朝鮮の上流階級にとってのならいだった。一方、尹心徳は自由恋愛主義者を自認する新女性(モダンガール)。おそらくは、心徳の熱情にほだされる形でふたり深みにはまっていったのだろう。

金佑鎮。早稲田大学で戯曲を学ぶ。色白の長身、秀でた額が特徴の美青年、女性にモテたらしく木浦に妻子を残している他、尹心徳と出会ったころには日本人看護婦の恋人もいたという。一方の心徳は好き嫌いのはっきりした性格で独占欲が強かったという。

「心徳が死ぬと言っている。止めにいかねば」。
京城にあった金佑鎮は、そう友人に告げるとあわただしく東京に旅立っていった。1926年3月の終わりのころである。仲間が佑鎮を見たのはそれが最後であった。果たして東京と恋人たちの間でどのような話し合いがもたれたか。結果的にふたりは、博多から釜山に向かう連絡船・徳寿丸のデッキから抱き合い、荒巻く玄界灘へと身を投じてしまうのである。ふたりが変名でリザーブした客室には「荷物を家まで届けてください」と自宅の住所を記した書置きが残されていた。4月3日のことだった。
 尹心徳の『死の賛美』は現在、YouTubeで聴くことができるが、澱んだ湖水の水面が陽を浴びてキラキラ光っているかのようなガラスの高音が妖しく物憂げで、なるほど死を覚悟した人の歌声はかくもと思わせる。この曲は、事件の衝撃性もあって、当時の朝鮮の若者の間で流行り、模倣心中まで生んだそうである。歌と死ということでいえば、そのあまりにも絶望的な歌詞と声から多くの自殺者を出したといわれるダミアの『暗い日曜日』が思い浮かぶが、こちらは1936年(昭和11年)だから、尹心徳の方が10年も早いことになる。

ふたりの遺体は玄界灘に呑み込まれ結局発見されず。そのことがいろいろな憶測を呼んだ。実は尹心徳は生存していて、憧れのイタリアで音楽を学んでいる、という噂を紹介した雑誌『三千里』(1931年1月号)の記事。
尹心徳の心中劇は戦後何度も映画やドラマの素材となっている。このポスターは1969年の文姫(ムン・ヒ)主演のもの。お相手は当時の人気男優・申星一(シン・ソルイル)。1991年には『死の賛美』として再映画化された。また同名のミュージカルやテレビドラマもある。
ダミア。『暗い日曜日』は淡谷のり子の日本語カヴァーもある。

文化の爛熟と自殺への誘惑

 尹心徳と金佑鎮の心中事件は時代のムウドと無縁ではなかろう。大正から昭和初期にかけてのエロ・グロ・ナンセンスの自由な風潮の中に、第一次大戦後のヨーロッパに蔓延していた退廃的で虚無的な空気が少し遅れる形で日本にも入ってきた。文芸の世界では自然主義から耽美主義へと主流が移り、前衛運動もまっさかりであった。また、極右極左入り乱れてのテロルの時代の幕開けでもあった。要するに刹那的で享楽的なムウドが世の中を覆っていたのだ。
 官能と死の一致は文化の爛熟期にこそ起きる。近松の心中ものが人気を博したのは元禄から享保年間だった。大正から昭和初期にかけてのベル・エポックは、ちょっとした情死(心中)ブームがあった。
 1921年(大正10年)11月、絶対自由主義の哲学者・野村隈畔が愛人と江戸川に入水、1923年(大正12年)6月には作家・有島武郎と編集者で人妻だった波多野秋子と名だたる軽井沢心中、1925年(大正14年)には北里柴三郎博士の長男が芸妓と情死騒動を起こし、長男は命を取り留めたものの、女は死亡している。1930年(昭和5年)は、作家・太宰治が最初の情死騒動。これも男(太宰)が助かり、相手女性(女給・田部シメ子)が帰らぬ人となった。1932年(昭和7年)5月には、「天国に結ぶ恋」「ふたりの恋は清かった」と謳われる有名な坂田山心中が起きている。これは、プラトニックラブの果ての心中(事実は違っていたが)ということで、歌に、映画に、過分に美化され、そのために多くの模倣者を出した。中には映画館の暗闇の中、服毒シーンに合わせて実際の心中で使われたのと同じ昇汞水(しょうこうすい)をあおって果てるカップルもいた。同年8月には徳川慶喜の十男・勝精伯爵が愛妾とカルモチン服毒心中。翌1933年(昭和8年)2月は実践女子学校の生徒ふたりが三原山火口で同性心中未遂(ひとりは死亡)を起こしている。これも多数の模倣者を出し、三原山は心中のメッカとなった。
 この1933年1月から3月24日までの83日間に、男女32人が三原山火口への投身自殺を遂げ、67人の未遂者を出している。ほかに大島航路の船内、海への投身、三原山山中の心中3組など計107人にのぼる。前年の1932年にも火口投身自殺は9件あったという。情死、単独自殺問わず、この時代の自殺者の顕著な傾向は、多くが若者で、男女ともに高等教育を受けた者たちということだった。
 哲学者気取りのハムレット君は厭世自殺、詩人くずれのウェルテル君は失恋自殺、悩めるロミオとジュリエットは情死と、自死は文系オタクなインテリのステータスのようなものだったのである。まさに「死の賛美」そのものだったのだ。

妓生と富豪令息の恋の清算

 こういった内地の情死ブームは、流感のようにすぐさま半島にも広まった。言い換えるなら併合も十数年を経て、半島も文化の爛熟を享受していたということである。
 尹心徳・金佑鎮の心中事件に先駆けること3年前の、1923年6月、こんな事件が起こっている。忠清南道の温陽温泉の旅館客室で明月館の妓生・康明花(カン・ミョンファ)が猫イラズを食べて自殺。外出から帰ってきた恋人の張炳天(チャン・ビョンチャン)がそれを発見し医者を呼ぼうとしたが、すでに手遅れの状態で明花は愛する人の腕の中で絶命している。張炳天は慶州北道の富豪の長男。炳天は明花との結婚を希望したが、父は妓生との結婚を認めるはずもなかった。また、自分との交際で炳天が世間から白眼視されることを明花はなにより苦しんでいたという。明花は自分を処することですべてを清算するつもりだったのだ。ふたりは、東京で同棲生活を送っていた時期もあったという。人の目や口を気にせず愛の巣をはぐくむことができたのは、内地だったのである。
 愛する人を失った炳天はすぐさま同じ猫イラズを食して後を追ったが、これは失敗。翌7月にも服毒を試みるがやはり死にきれず、3度目の正直の10月29日、念願かなって明花の待つ彼岸に旅立っていった。ちなみに猫イラズは安価な殺鼠剤として現在でもつかわれているが、主成分は燐で猛毒だ。死体は口元にためたよだれや鼻水が妖しく燐光を発するのが特徴である。
 康明花自殺のニュースに触れて、女流画家で女性運動家の羅蕙錫(ナ・ヘソク)は、「朝鮮の社会で真に愛を貫けるのは妓生の他にない」と最大限の賛辞を送っている。

康明花の自殺を報じる新聞記事。妓生との同棲が父の知ることになり、仕送りを止められた張青年の暮らしは困窮していたという。(東亞日報1923年6月15日)。。
康明花。美貌の上、書画雅曲に才をもつ名月館のスターで、彼女のために散財を惜しまぬお大尽も多かったが、決して金では転ばなかったという。張との関係をからかう留学生仲間の前で絶指してみせ、愛の証を示したともいわれている。
『康明花の哀死』。明花の殉愛は通俗読み物のよき素材となった。まさに挑戦版『ロミオとジュリエット』か。作者不明。

女流歌人・朴貞珍の辞世の短歌

 1931年(昭和6年)1月には、女流歌人・朴貞珍(パク・ジャンヂン)が東京の下宿で服毒死する事件があった。朴は東京女子高等師範学校に学ぶ身だった。彼女は早大生L(とだけ当時の新聞記事には記されているが、たぶん、内地留学の朝鮮人学生)という恋人がいたが、ふたりの結婚が叶わぬと知っての失恋自殺だった。
 歌人としてはまだ新人で、無名に近い朴だったが、辞世に遺した和歌が雑誌『三千里』(1931年3月号)誌上に公開されると、読者の誰もがその才を惜しみ涙でページを濡らした。遺された9首の歌には、去っていった恋人を、郷里の母を、文学を、思う貞珍の祈りが切々と歌われている。

・われを思ふ母を思ひて 獨り淋しく 日の暮るゝまで
・今日ももの憂き 春の日よ わが胸は永遠(とは)に秋なり
・思ふまじと思ひて 又思ふ かの君や 今 如何に
・歌咏(よ)めるは なほ幸(さち)なり、咏まんとするも 咏まれず
・思ふまじ 思ふまじ、われ 永遠(とは)に 彼を思ふまじ
・嵐過ぎたりわが心のあらし ひさしふりにて靑葉を眺むる
・おゝ何とわれの 愚かなりし 捨てるこそ 得るものなれ
・田園文學と 芭蕉をよむ 何と なつかしき文字ぞ
・夢の如し過ぎし苦しき幾年よ われ新(あらた)に生きんこの日より

「思ふまじ」で始まる歌が2首もあるのが切ない。なぜに「われ新に生きん」決意をゆがめしか。歌咏める幸を知りたる君が。

・その友はもだえのはてに 歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き(晶子)

同性愛心中はどのように報じられたか

 同じく1931年の4月8日。京城の永登浦駅で女性ふたりが固く手を握って、走りくる列車に飛び込んで轢死を遂げた。ふたりが同性愛の関係であったこと、ともに名家の令嬢で、片方は人妻であったことなどで、当時、この心中事件は大きな話題を撒いた。
心中劇のふたりの主役のうち、ひとりは、医学博士・洪錫厚(ホン・チュソク)の娘・洪玉任(ホン・オギョム)21歳。ちなみに洪玉任の叔父は、『鳳仙花』の作曲者として知られる音楽家の洪蘭坡(こう・らんは/ホン・ナンパ)である。もうひとりは大手出版社社長を父にもつ金栄珠(キム・ヨンジュ)19歳で、栄珠は心中当時、予備飛行士・沈錫盆(シム・チュソク)の夫人であった。
洪玉任と金栄珠は女学校の同級、寮のルームメイトだったという。栄珠の方が年下なのは、成績優秀で飛び級したものと思われる。良家のならいとして親の決めた望まぬ結婚に悩む栄珠に同情した玉任が、来世で結ばれることを約して死出の旅に誘ったのだろうか。
 この事件をもっとも熱心に取り上げたのは朝鮮日報で、「鉄路の露となった二輪の勿忘草」という感傷的なタイトルで、5回にわたって特集記事を組んでいる。記事の中で何人かの識者の声を拾っているので紹介すると、たとえば、淑明女子高校教師の金永煥(キム・ヨンファン)は「ふたりの死は自己中心的」と斬って捨てたかと思えば、梨花女子堂の金永煥(キム・チャンジェ)は「賛美はできないが、一方的な攻撃は間違っている」と一定の同情を示している。

「同性恋愛と鉄道自殺」「洪博士の令嬢に沈飛行士の妻」。鉄道自殺の現場ほど悲惨なものはない。他の報道によれば、遺体はほとんど身元がわからない状態だったようだ。遺された靴と懐に忍ばせた写真(↓)が頼りだったという。(朝鮮日報1931年4月10日)
洪玉任と金栄珠。死の直前に撮られたもの。まっすぐ前を見据えるその表情に何か固い決意のようなものを感じるが。

 興味深いのは、洪玉任と金栄珠のレズビアンの関係について記事は、少女趣味的な論調で読者の興味を煽りながらも、決してそれ自体を不道徳であるとかアブノーマルであるとか断罪をしていないことである。LGBTなどという言葉のなかった、この時代の方が、内地もそしてその影響を強く受けた朝鮮も同性愛に関しては総じて寛容的だった。というよりも、男女7歳にて席を同じゅうせず式の極端な異性忌避の風潮が、トッポい若者の間に、疑似恋愛としての同性愛の流行を後押しする形になったのかもしれない。
たとえば、旧制高校の学生が「硬派」といえば、それは可愛い後輩をお稚児として連れ歩くような高踏的な趣味をいい、硬派学生は、女の尻を追いかけ回す「軟派」と自らを固く一線を画し彼らをむしろ軽蔑していた。作家・里見弴の初恋の相手が兄・有島武郎の親友・志賀直哉だったことはつとに知られている。菊池寛にも同性愛の傾向があった。レズビアンでいえば、吉屋信子が早い時期にカミング・アウトしている。
 朝鮮では、さらに進んでいて、雑誌『別乾坤(ビョルゴンゴン)』‘1930年11月号が「女流名士の同性愛記」という特集を組み、女性活動家でジャーナリストの黃信德(ファン・シンドク)、李光洙(イ・グァンス)の妻で女医の許英肅(ホ・ヨンスク)、キリスト教伝道師で女性活動家、医師でもあった李トクヨウなどそうそうたるインテリ女性たちが写真入りで自身の同性愛体験を激白するほどだった。むろん、その告白によって彼女たちのキャリアに傷がつくようなこともなかった。

フェミニストを中心とした女性論客が写真入りで過去の同性愛体験を告白。許英肅は「女学校に通っていた女子で同性愛の経験がない者を探す方が困難ではないか」と語っている。(『別乾坤』1930年11月号)
近年、断髪女学生(断髪は当時の朝鮮女性の先端)の間では同性愛が流行っているという街ネタ記事。多くは上級生と下級生の間柄だという。(『女性』1937年7月号)

洪玉任と金栄珠の鉄道心中の翌月の1931年5月5日付の朝鮮日報には、李蘇吉(イ・ソンギル)金炳星(キム・ビョンソン)という、ともに二十歳の男性ゲイのカップルが安東縣錦江の公園で服毒心中したという事件が報じられている。服毒に使われたのは阿片だという。

青年ふたりが公園内で情死。男同士の心中は内地でも事例をあまりみないのではないか。動機は厭世によるものらしい。(朝鮮日報1931年5月5日)

自死ブームの終焉と不穏の時代

 自死への誘惑は、時に集団ヒステリーの形をとって表れるらしい。1937年(昭和12年)2月17日には昭和猟奇事件史に名を遺す「死なう団事件」が起きている。同日の正午すぎから午後2時すぎまでの間に、東京都心の国会議事堂前、宮城前広場、警視庁玄関、元外務次官官邸前、内務省の各所で、羽織袴姿の5人の青年が「死のう! 死のう!」と叫びながら割腹自殺をはかったのである。彼らは日蓮宗系新興宗教「日蓮会殉教衆青年党」(通称・死なう団)のメンバーで、いずれも未遂に終っている。集団割腹にいたったきっかけは世情の不安と教団に対する当局の干渉への被害妄想であった。

死なう団事件を伝える新聞。我が祖国の為めに、死なう!!! 我が主義の為めに、死なう!!! 我が宗教の為めに、死なう!!! 我が盟主の為めに、死なう!!!  我が同志の為めに、死なう!!!

 彼らの不安が的中したかのように、この年の7月に支那事変が勃発。モダニズムとエロ・グロ・ナンセンスの波はしだいに遠くのものとなり、それにかわって国防色が国全体を覆うようになる。と同時に、あれだけ流行した若者の自死・情死の記事も潮が引くように新聞の紙面から消えていった(時局柄、当局の圧力で掲載を見合わせたとも考えられるが)。人間、真に不安な世の中になると、生への欲求へと一気に針が振れるらしい。官能と死の一致は文化の爛熟期にこそ起きると書いたゆえんである。死なう団事件は、自死ブームの最後の大花火だったといえるのかもしれない。

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(初出)

※ただし、単行本収録は短縮版。本稿が完全版です。

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