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インタビュー「北方領土まで泳いだ男」網走五郎が語る 沖縄・神社・領土問題


(リード)
出会いは『網走五郎伝~もうひとつの天井桟敷』という一冊の本だった。
寺山修司の演劇実験室・天井桟敷の元役者。単身、北方領土へ泳いで渡り、ソ連の刑務所に6カ月間抑留される。さらに尖閣諸島に手漕ぎボートで渡る。その後、沖縄県護国神社の神主となり、今はボクシング・トレーナーとして「あしたのジョー」を育てる毎日。――そんな凄い男が沖縄那覇にいる! 今回、取材旅行で沖縄行きが決まったとき、但馬はひとつだけ条件(というかお願い)を出した。
網走五郎に会いたい!と。

『網走五郎伝―もうひとつの天井桟敷』(河出書房新社)

フーテン族の教祖・寺山修司

――天井桟敷といえば、60年代日本のアングラ文化、カウンター・カルチャーの最先端、発信基地でしたよね。その天井桟敷と北方領土と、ましてや護国神社がどうしてもイメージで結びつかなくて、そのことが逆に僕の中で網走五郎という人に対する強烈な興味となりました。まず、寺山修司さんとの出会いまでお話しくださいますか。
網走 大学を中退して金山ダムの建設現場で働き、お金を貯めて上京後は警備会社に務めました。当時、ドラマ『ザ・ガードマン』が大人気で、警備員は花形職業だったんです。夜勤しているときたまたま聞いた深夜ラジオで「新宿のフーテン族の教祖的存在」ということで寺山さんを紹介していて興味をもって、『家出のすすめ』を手始めに寺山さんの本をむさぼるように読んでね。それで渋谷にあった天井桟敷館に寺山さんを訪ねていったんです。会うだけのつもりだったのが、そのまま入団試験も受けずに入団してしまった。昭和44年(1969年)のことです。
 北海道出身だから網走番外地からとって網走、五郎はゴロつきから――寺山さんがつけてくれた芸名です。当時はこの名前に恥じないように(?)、週一回のケンカを自分に課して、よく盛り場でケンカしていました。
――(笑)。寺山さんはどんな人でしたか。
網走 私は演劇についてはまったくよくわからなくて、「演劇なんて女子供の遊戯だ」なんて嘯いていました。劇団にいながら演劇を否定しているんだから(笑)。本当は人前で話すことが苦手で、劇団に入ったのはそれを克服するためでもあったんですけどね。そんな私を受け入れてくれた寺山さんはやはり懐の深い人ですよ。芝居では、私にはいつもセリフは少ないけれど存在感のある役をくれました。可愛がられてましたね。よく競馬場にもお供しました。ユリシーズという競走馬のオーナーだったんですよ、寺山さん。

寺山修司と初代・天井桟敷館


 ただ、劇団幹部からは生意気に見えたんじゃないですか。空手竜という役者がいて、その名の通り空手二段の猛者で劇団内に「犯罪グループ」なる派閥をつくっていてた。その空手竜がある日、私に制裁を加えるということでいきなり殴ってきたんですよ。私は当時、協栄ジムに通っていたし、彼のパンチなんか軽くかわして反対に顔面やボディに十数発叩き込んでやりました。
 その一週間ぐらいあとかな、今度は寺山さんが「おい、網走、スパーリングやろう」て言ってきた。当時、天井桟敷館の地下劇場には芝居用のボクシングのリングがあったんですよ。グローブをつけると寺山さん、ガードを固めて突っ込んできた。あれはファイティング原田のスタイルだね。最初から敵意丸出しで、明らかに空手竜を潰されたことの報復だとわかったから、こちらも手加減なしでパンチを全部ヒットさせた。寺山さん、最後はうずくまって泣いてましたよ。

網走族とはなにか。

――座長をボコボコにして、よく追い出されなかったですね。そこが寺山さんの懐の深さだと。
網走 とにかく劇団幹部の懲罰がきびしくて。カルメン・マキが『時には母のない子のように』でスターになったばかりで、生意気だというので、よく演出の萩原朔美(詩人・朔太郎の孫。母は作家・萩原葉子)にイビられていましたよ。私は大いに憤慨して劇団の壁に「カルメン・マキを排除するな」「懲罰はよせ!」という貼り紙を貼り出したんです。誰も排除するな、俺たちハジカレ者ではないか、ハジカレ者が仲間を弾くなと。そのうちに私を中心に劇団内に「網走族」というグループが出来上がったんです。網走族はどんどんメンバーが増えてね、しまいには寺山さんまでもが、「網走族に入れてくれ」って。そうしているうちに萩原朔美は退団してしまうんだ。あとで彼の書いた本(『思い出の中の寺山修司』)を読むと、劇団内に網走族ができたことで、自分の役目は終わったと思ったというようなことを書いている。それ読んで驚きましたね。
――萩原朔美さんはその後、雑誌『ビックリハウス』を立ち上げて、いわば渋谷系サブカルの走りだったわけですけど、雑誌が軌道に乗ると何の未練なく高橋章子さんに編集長を譲ってますね。器ができれば、あとは後進にまかせる、それがあの人の人生スタイルだったのかもしれません。
網走 あの頃は、とにかく萩原の野郎は許せねえと思ってましたけどね。実は私の本(『網走五郎伝~もうひつの天井桟敷』)を出すのに出版社を探してくれたのは彼だったんですよ。

寺山修司直筆の貼り紙は、今も網走氏が大切に保管している。
『時には母のない子のように』作詞・寺山修司 作曲・田中未知


 それからカルメン・マキだけど、彼女が沖縄でコンサートをやったとき、訪ねていったら、私のことを知らないというんだ。ずっとあとに天井桟敷の同窓会で会ったとき、「本当は、(網走氏だと)わかってました」って。
――なぜマキさんは知らないって言ったんでしょ。
網走 私を見てね、昔の仲間が沖縄でヤクザになったと勘違いしたらしい。沖縄のヤクザは半端ないから、怖かったのでしょう。

寺山・三島・慎太郎

――ところで、五郎さんの御本に、寺山さんが石原慎太郎から参議院選出馬を要請され、本人もまんざらでもなかったというエピソードが出てきすね。寺山さんは政治的な人ではないと思っていましたからちょっと意外でした。反面、どんな政治家になっていたか興味もわきますが(笑)。
網走 昭和46年の参議委員選ですね。まあ、石原慎太郎からお願いされたということで気分良かったんだな。私は反対しましたけど、それ以前に寺山さんの中でも答えは決まっていたと思いますよ。代りに慎太郎に担がれて、みごと初当選したのが細川護熙。のちの総理大臣です。
――出馬要請があったのは三島由紀夫の事件の直後だったそうですね。寺山修司、三島由紀夫、石原慎太郎が並ぶのというのも面白い。
網走 但馬さん、フェイスブックに「右手に三島由紀夫、左手に寺山修司」って書いてたでしょ?
――ええ。僕の10代はまさに。どちらが欠けても今の僕はなかったでしょう。
網走 私も三島由紀夫にはすごく影響を受けたね。ある意味では寺山さん以上に。
 寺山さんと三島さんは結構親しかったんですよ。三島さんは盾の会のメンバーを連れて天井桟敷を観にきたりね。「天井桟敷の劇団員は人前でしっかり主張ができて羨ましい。うちの隊員にも見習えと言っているんだ」と三島さんから言われたと寺山さんが喜んでいたのを覚えていますよ。
 三島由紀夫の割腹には衝撃を受けましたね。あの行動の前には、自分たちのやっている演劇が本当に「女子供の遊戯」になってしまった。思えば、北方領土に渡ろうと思ったのも、三島由紀夫が強く影響したんではないかなあ。

『潮』1970年7月号での対談。冒頭、三島氏は天井桟敷ファンであることを公言。いうまでもなく、市ヶ谷での決起の半年前だ。

天皇陛下(現上皇陛下)の沖縄に対する思い

網走 その後、些細な行き違いから寺山さんとの間が気まずくなり、正式な退団届もないまま天井桟敷を去ることになるんです。
 しばらく故郷の北海道で過ごしたあと再び家を出て。私は北海道生まれのくせに寒さが大の苦手なんですよ、とにかく日本列島を南へ南へと移動しました。結局、九州では職がなく、奄美でぶらりと入ったスナックのホステスの勧めで沖縄に渡ったんです。昭和48年の暮でした。
 返還から2年しか経っていない那覇の街はまだあちこちに英語の看板が氾濫していましたね。中古のライトバンを買ってそれをねぐらにした住所不定の暮しです。そうしているうちに沖縄海洋博が始まるんで、海洋博協会直轄警備隊に入隊しました。昔、綜合警備にいた強みですね。海洋博は復帰後の沖縄にとっての一大イベントでしたから、警備隊用の宿舎もあてがわれて、待遇はよかったですよ。仕事が終わると5人乗りの車に7人乗ってコザ吉原に女郎買い。警察に呼び止められることもあったけど、「直轄警備隊だ。急いでいる」と言ったら、それでパスになりましたよ。
――直轄警備隊のご威光ですね。
網走 当時皇太子殿下だった両陛下(現・上皇上皇后陛下)が開会式にこられ、そのときの警備が初仕事でした。ひめゆりの塔での火炎瓶事件の2日あとでしょ、すごく緊張しましたね。しかし、両陛下はそんなことを少しもお顔には出さず、進んで観客に手を振られて。警備する方は困るわけですよ(笑)。私はこう両手を広げて両陛下と観客との間でサンドイッチ状態で。美智子様とは体が密着してましたね。
――それもすごい体験ですね。

ひめゆりの塔説明を受ける両殿下。手前に火炎瓶をもった過激派が。


網走 天皇陛下といえば、もうひとつ忘れられない思い出があります。これはずっとあと、神主になってからのことですけどね。平成11年2月、私が全国護国神社壮青年神職研修会の皇居勤労奉仕に副団長として参加したときのことです。
 清掃奉仕が終ったあと、両陛下から御会釈をいただく「御会釈会」というのがあるんです。7団体300人が参加しました。通常の御会釈のあと、天皇陛下が「沖縄からこられたのはどなたですか?」とお訊ねになられて。「はい! 私です。沖縄県護国神社から参りました」。陛下は私の方にお顔を向けられてね「沖縄では多くの方が亡くなられて……」と静かに語られたんですよ。 「沖縄県護国神社には17万8651柱のご英霊をお祀り致しております」とお応えすると今度は、皇后陛下 が「みたまのお鎮をお願いいたします」。両陛下が私に向って深々と頭を下げられた。そして最後に天皇陛下が「これからも遺族の支えとなって務められるよう祈っております」と結ばれたんですよ。
 夕方、靖国神社に戻ると、湯澤貞宮司と三井勝生権宮司が私を待っていて「陛下からのお言葉、おめでとう」と握手を求められました。陛下のお言葉が神主にとっていかに名誉なことであるのかを身をもって知りました。それと、天皇陛下がどれだけ沖縄に対して特別な思いを持たれているかということですね。
――それは先帝陛下(昭和天皇)の思いと同じでしたでしょうね。
網走 海洋博が終ると当然、直轄警備隊も解散ということになります。私はまたライトバンをねぐらの気ままな住所不定暮らしにもどり、日本一周の旅をしていました。北海道の納沙布岬ではるか北方領土を臨んだのは昭和51年10月22日のことです。

海洋博公園にて。「こうやって両手を広げて、陛下と観客の間に入って」。当時の警備を再現。

ハジカレ者の北方領土

《『俺と似ている』 これが北方領土を見た第一印象であった。領土を見て自分と似ていると感じるのも妙なものだが、大学中退後、社会人のスタートを土方で始めて、その後天井桟敷を家出し、未だに住所不定無職の一人旅を続けている自分と、日本の領土でありながら、そこからはじき出されている北方領土とは、どこか同じ境遇に思えてくるのだった。
 私は北方領土へ渡りたいと思った。いわば仲間に逢いにいきたかったのである。しかし、目の前には大砲を備えた灰色のソ連警備兵が守りを固めていた。
『日本の領土を日本人が往来できないなんて、こんな馬鹿なことが許されていいのか。なんとか北方領土をソ連の力から解放して自由にしてやりたい! 北方領土を解放することは、自分を含めた世の中のハジカレ者(網走族)を解放することであるのだ』(渡辺尚武著『網走五郎伝』)

網走 北方領土に泳いで渡ると心に決めたら、まず体力作りですね。博多のストリップ小屋で働きながら、ランニング、腕立て、腹筋、懸垂を毎日。翌、昭和52年3月には沖縄に戻って、本格的な水泳の特訓です。海洋博会場の本部半島にバンを止めて長いときでは1日8時間も海に浸かっていました。実は私、それまで50メートルしか泳いだことがなかったんですよ。でも特訓の甲斐あって、3ヶ月後には連続1万メートルも泳げるようになりました。体は筋肉の塊でしたよ。
――危険な目にとかは遭いませんでしたか。
網走 ウミヘビを見たときは本当に怖かったですね。ハブの何倍もの毒性だと聞いていましたから。ただ、ウミヘビは決して自分からは攻撃してこないんですよ。それから映画『ジョーズ』を観たあと2、3日は海に入るのが恐ろしかった(笑)。
 出会いもありました。物珍しさから夜、僕のバンに訪ねてくる連中と酒を飲んだり。高校生からホームレスまでいろんな人がいました。沖縄県護国神社の神主だった大野康孝と知り合ったのもこのときです。彼はのちに靖国神社の宮司になる父大野俊康氏の息子で、神道界のエリートですよ。康孝とはその後、いろいろあってね、でも会った頃は本当に純粋な右翼青年で、そちらの方にも顔の利く男だった。私より年下でしたけど、去年だったっかな、亡くなってしまいましたけどね。
――護国神社とのご縁はそのときにあったのですね。
網走 ライトバンがバスにぶつけられて廃車になってしまうんですよ。ねぐらを失ってしまい行くところもないので、康孝を頼って神社に寝泊りさせてもらいました。幸い、事務局長夫妻もいい人で、寝泊りや食事の他、神社の雑用を手伝うことで給金までくれてね。それらの人たちの声援を背に私は北方領土に泳いで渡るため、沖縄をあとにしたのです。昭和52年7月でした。
――そのまま納沙布に向かわれたのですか。
網走 2、3日実家で過ごしました。両親にはキャンプに行ってくると言って家を出てね。納沙布では天候を睨みながら決行の時を待ちました。7月26日の早朝、ようやく霧が晴れて歯舞群島の貝殻島灯台の先端が見えたんです。このチャンスを逃してなるまいと海に飛び込みました。直前に両親には「北方領土へ行く」という手紙を出しましたけどね。
――ご両親も驚かれたでしょうね。7月とはいえ、オホーツクの海は…。
網走 ウェットスーツを着ていましたが、沖縄の海とはくらべものにならないほど水温は低い。
進めば進むほど冷たくなるんです。おまけに雨も降りだしてきて。手足の感覚もなくなってて。どうにか貝殻島に上陸して一休みしました。貝殻島は無人島です。私の目的はソ連政府に抗議文を渡すことでしたから、それにはソ連兵が常駐している隣の水晶島にまで行かなくてはいけない。ところがなんと、目の前にソ連の警備艇がいるんですよ。とにかく、ウェットスーツから日の丸を取り出して大きく振りました。警備艇からモーターボートが降ろされこちらにやってくる。興奮しましたね。モーターボートからは二人の男。生まれて初めてみるソ連人です。さっそく抗議文を渡しました。

ソ連は北方領土を返すつもりだった?

《(抗議文)私は単身、泳いで日本からやって来た網走五郎と言う者です。年齢は三十二歳。私は貴国に亡命したくてやって来たのではありません。北方領土返還の抗議に来たのです。歯舞・色丹・国後・択捉の四島は日本固有の領土です。早急に返還して下さい。1945年8月、日本は広島・長崎に原爆攻撃を受け、瀕死の状態になっていたが、貴国はこの時、日ソ不可侵条約を一方的に破って日本攻撃を開始したのです。当時、日本は、日・独・伊三国軍事同盟を結んでいたので、貴国がヒトラードイツ軍に押しまくられていた時、日本も貴国に攻撃を仕掛け、貴国を敗北に導くことができたにもかかわらず、日本は条約を守って攻撃を仕掛けなかったのです。ところが貴国は、日本弱しとみるや条約を踏みにじって日本攻撃を開始し、千島・樺太を占領した。その後未だ占領をし続け、日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島すら返還しないのは、畜生にも劣ると言わねばなりません。日本から直接攻撃を受け、大きな被害を被ったアメリカですら、五年前には沖縄を返還しています。貴国も日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を早急に返還すべきです。私はこの四島が返還されるまで、当分貴国に置かせてもらいます。私の後ろには一億一千万人の日本国民がついています。 ソ連政府殿 網走五郎》

――拿捕されるために渡ったというのもすごいですね。撃たれるとかの心配なかったのですか。
網走 実は貝殻島に着いたとき、そばに日本の巡視艇もいたんです。もし、それがなければ、躊躇なく撃っていたと取り調べで言われましたけどね。警備艇で軽い食事を与えられたあと目隠しされたままヘリコプターで収容所まで運ばれました。取り調べはおおむね紳士的でしたよ。面白かったのは通訳官が「へっぺ」(北海道・東北の方言で性行為)という言葉を使ったことですね。「ストリップ小屋にいたそうだが、何人の踊り子とへっぺしたか」なんてことまで根掘り葉掘り聞いてくる。
――色丹の収容所に送られたのですね。
網走 そのあとは国後の刑務所ですから、文字通り北方領土にいたということになりますね。国後からその日のうちにサハリンの刑務所に移動で目まぐるしかった。監房の壁には、拿捕されて収監された日本の漁師の落書きがいっぱいあって、中には妻や子の名前が。胸がつまりましたね。
――五郎さんの抗議はどこまで向うに伝わっていたのでしょう。
網走 取り調べ官は、私が北方領土に関して詳しいのでとても興味をもったようです。拿捕された漁師にそういう人はいなかったから。
 嘘か本当か、検事からはこんなことを言われました。「ソ連政府は1952年(SF平和条約の年)までに日本に北方領土を返す予定だった。しかし、在留米軍が撤退しないことが明らかになったので予定を変更したのだ。日本はアメリカの属国状態でないか」と。
 それから、「あなたは帰国後、必ず罰せられる」。何言っているんだと思いましたけどね。日本人が日本の領土に渡り、領土返還のための抗議活動をしているのに、何の法律で罰するんだ、と。でも、検事の言ったことは本当だった。
 そうそう、検事はいつも下手くそな通訳をつれてきて、そいつがあまりに要領を得ないものだから、ちょっと日本語でからかってやったら、「よろしい。わかりました」といって流暢な日本語を喋り出したんですよ。検事は私の喋っていることをすべて理解していた。

まさかの出入国管理法違反

――五郎さん自身は言葉で不自由することはなかったですか。
網走 看守や房仲間の囚人を通して少しずつロシア語を憶えていきました。女性の看守や看護婦相手にジョークもいえるようになったくらいです。中学高校時代の英単語はあんなに苦労したのに、人間、必要に迫られると憶えるのは早いですね。寒いのと黒パンの食事がまずいのを除けば、刑務所暮らしはそんなにつらいものではありませんでした。最初は人間の食い物じゃないと思っていた食事も最後の方は残さず食べるようになりましたよ。看護婦といったのは、釈放前に精神病院に入れられたためです。夜なんか、どこからか女の泣き声や叫び声が聞こえてくるんですよ。最初は、領土を返せと命がけで抗議に来た者を狂人扱いするのかと憤慨していましたが、今考えると、日本に帰すにあたっての健康診断のためだったようですね。 
――ソ連政府は日本からの侵入者を人道的に保護しましたという口実のためですか。
網走 病院の患者ともすぐ仲良くなりました。「ソ連が俺を狂人として扱うなら、俺の方から狂人になってやろう」と。廊下を挟んで鉄格子の部屋が4つある。廊下に誰か通ると患者は一斉に鉄格子にへばりついてその人をじーと見るんです。私も一週間後には同じ行動を取ってましたから。どっからみても立派な狂人でしょう。夕食後は各室の歌自慢が廊下を通して歌を競いあうんですよ。私の歌う『網走番外地』は患者たちに好評でした。
――五郎さんの適応能力には頭が下がります(笑)。半年の抑留を終え、帰国になるのですが。
網走 釈放され帰国した私を待っていたのは出入国管理法違反という罪名です。拿捕された4人の漁師とともに海上保安庁の巡視艇に乗ったのだけれど、私だけ別室に通され取り調べを受けた。「モスクワ行ってみたかったですか」という変な質問してくるんですよ。まあ、観光気分の軽いのりで「そうですね」と答えたんですけどね、これは引っかけだった。私にソ連本国に行く意志があったという言質を取るための。
――まさに政治的判断ですね。外交上、波風立てないと処理するという。
網走 書類送検で許してやるとか恩着せがましくいわれました。私は自分の抑留をきっかけに世論が沸騰し、領土返還運動が盛り上がることを期待していた。そのためには異国の地に何年もつながれてもいいという覚悟だった。その私をマスコミは「越境男」「日の丸男」と面白半分に書き立てたんです。こんなんじゃ、北方領土は永遠に返ってこないと思いましたね。日本政府は領土について真剣に考えているのかと。

「越境男帰る」(当時の新聞)。マスコミは、お騒がせ男、奇人変人として五郎を扱った。
『北方領土まで泳いだ男』(自費出版)

尖閣諸島で一月生活する

――北方領土上陸から3年後の昭和55年には尖閣諸島に手漕ぎボードで渡られていますね。
網走 札幌でタクシー運転手をやって貯めた金を資金がありましたから。与那国島の民宿に宿を取りながらボートの特訓をして。海保や警察の人間があれこれ接触してくるのでやりにくかったですね。
――監視対象だったのですね。
網走 魚釣島に渡る途中、ボートが転覆するし、北方領土行きよりも怖い目にあいましたよ。島では一月ほど生活しました。途中、右翼団体・日本青年社の隊員が上陸したので彼らと行動を共にするようになって。彼らが建てた灯台の保全作業やペンキ塗りを手伝いました。島には亡くなった人のための供養塔や神社まであるんですよ。みんなそろって般若心経をあげて合掌して。とても信心深い折り目の正しい人たちでした。
――右翼団体が放した山羊が繁殖しているという話ですが。
網走 いましたね。それから川にはウナギが。これは日本青年社の隊員が食用のために放流したものです。彼らは発電機を持参していて、自炊するんです。おかげで暖かい食事をいただけるようになりました。それまでは缶詰と生魚ばかりでしたからね。魚は取り放題、最高の漁場ですよ。
――日本の領土に対する五郎さんの熱い気持ちはよくわかりました。ようやくですが、北方領土に関しては動きが見えましたね。プーチン・安倍会談で共同経済活動の方針が決まった。これを外交上の失敗という人もいますが、僕は解決のための第一歩だと思っています。
網走 プーチンが私の抗議文を読んでくれていたら嬉しいね。但馬さんは基地問題の取材に来られたんでしょ。本当はね、外国の軍隊はいない方がいいのかもしれない。自分の国は自分で守らなくてはね。でも、今米軍が出ていったら、確実に中国は尖閣を取りに来るのはわかっていますよ。

寺山修司の死と神主への道

――神主になられたきっかけを教えてください。
網走 沖縄にくるたび護国神社のお世話になっていました。昭和57年でした。寺山修司さんと天井桟敷一向が映画『さらば箱舟』のロケで沖縄入りすることを聞いたんです。私は常々いつか天井桟敷に戻りたいと思っていました。自分は辞めたのではない、天井桟敷を家出しているだけだとね。それで思い切って宿泊先のホテルに電話をかけたんです。新高恵子さん(天井桟敷の看板女優で寺山氏の公私にわたるパートナー)が出たんで、戻りたい旨伝えると「もう五郎ちゃんが戻れる劇団じゃないから」って言われた。昔の、寺山さんを長とした誰でも受け入れる天井桟敷ではなくて、組織としての劇団になってしまったんだなと解釈しました。
 それから新高さんは「寺山さんが死にそうなの。五郎ちゃん、会いにいってあげて」。嘘だろ。人間がそんな簡単に死ぬわけがないよ。まして寺山さんがと思いましたけどね。

映画『さらば箱舟』。原作はマルケスの『百年の孤独』だが、原作者の意向によりそのままタイトルを使えず。


 帰る場所を失った私ですが、その年の暮、護国神社の事務局長が神主にならないかと言ってくれたんです。翌年から神社の職員として働きながら神主の勉強を始めました。神主になるには学校を出るか講習を受けるか、どちらにしろ神社庁長の推薦がいるんです。ところが、神社庁長は私の素行を理由に推薦を断わってきた。実は職員になった翌月に、私は飲酒運転で4日拘留されている。当時の飲酒運転の常識では4日も留置されるのは異例でした。私は過激派右翼として警察にマークされていたんだな。留置所を出た日、昭和58年5月4日はくしくも寺山さんの亡くなった日でもありました。新高さんの言っていたことは本当だったんです。
――肝硬変でしたね。まだ40代で亡くなってしまった。
網走 天井桟敷から自立しろという寺山さんのメッセージだと思いましたね。このときです、自分は神主になるんだという決心が固まったのは。
 その後、北海道出身の室崎清平という右翼の名士が沖縄県護国神社に参拝にこられたんですよ。80歳を越えていましけど、大柄で豪放磊落な方でした。室埼清平翁は「北方領土に泳いだ男」ということで私のことを既にご存知で、とても可愛がってくださった。「俺が神社庁長に掛け合ってやる」。翌日、本当に沖縄県神社庁がある波上宮に私を連れていって庁長を掛け合ってくれた。
「彼を一人前の神主にしてやってくれ」。室埼先生の一言で推薦が決まりました。
――それだけ大物の先生だったのですね。
網走 笹川良一さんが沖縄県護国神社に参拝にきたときも声をかけてくれたし、野村秋介さんは機関紙に私のことを「たんに北方領土へ泳いだという物理的問題ではなく、思想戦の一環として大いに有効であることを認めるべきなのだ」と紹介してくれましたね。
――しかも、天皇陛下からお声をかえられる神主になられたわけですから。
網走 右翼の大物に可愛がられたからというわけでもないけれど、私は神社内でそれなりの発言力がありましたから。沖縄県護国神社は靖国神社と同じく神社本庁に属さない単立の神社です。その護国神社が一時期、神社本庁傘下に入る寸前にまで行った。本庁からの説得に、神社側がその気になったのです。それに対し、私は最後の最後まで反対しギリギリとところで本庁入りを阻止したんです。
 神社本庁の管轄下に入るということは、御英霊の遺族が熱望している国家護持への道を塞いでしまうことになる。国のために亡くなった方を国でお祀りしないでどうするんですか。
――そんなことがあったのですか。
網走 今言ったように、その頃はまだ私の意見に耳を傾ける者も多かった。でも、少しずつ時代とともに沖縄県護国神社も変質していきました。それまで神主には定年退職などなかったのに、定年制を導入するということになって、私は65歳で神社を去ることになった。まあ、それに関して神社を恨むことはありません。

『網走五郎神社物語』(電子出版)。


 今は沖縄県護国神社と同じ奥武山公園の奥武山ボクシング会館で無報酬で青少年にボクシング指導をする毎日です。寺山さんは「網走の老後は丹下段平だ」と言っていたけど、それはまるで予言でしたね。この会館からあしたのジョーを育ててみせますよ。
――沖縄県は数多くの世界チャンピオンを出したボクシング県ですものね。
網走 具志堅用高を初め多くのボクサーを育てた名トレーナー・金城真吉氏の口癖は「ヤマトをぶち殺せ!」だったそうです。本人は最近「そんなこと言ってない」とか言ってるそうだけど(笑)。実際、沖縄の人のヤマトに対する思いは複雑なものがあったと思います。でもそれをバネとして沖縄のボクサーは強くなった。「ヤマト何糞!」という意識が薄れるにつれ、沖縄のボクシングも弱体化したような気がする。
 私も沖縄に対しては「何糞!」という気持ちがあります。ある大会で、私の教え子が圧倒的に有利に戦いを進めながら不可解な判定に涙を呑んだのです。私がヤマト出身ということであからさまな意地悪です。でも、それが今の私のバネになっている。ヤマトの私が沖縄で世界チャンピオンを育てたいのです。

奥武山ボクシング会館にて。練習生募集。不良少年、いじめられっ子、もやっしっ子も大歓迎。
フルサイズのリングは、都内の有名ボクシングジムでもまずない。トイレ、シャワールームも完備しており、宿泊練習ができる充実した施設である。 入会金・月会費無料。

【網走五郎】本名・渡辺尚武。1944年北海道生まれ。1969年から3年間、天井桟敷に在籍。『時代はサーカスの象に乗って』で初舞台。1977年7月、北方領土返還を訴え北方領土に泳いで渡り、ソ連に抑留される。1980年7月、尖閣諸島上陸。1983年、沖縄県護国神社に入社。現在は奥武山ボクシング会館にて無報酬の指導員を続ける。

●本ページトップ写真は沖縄県護国神社での網走五郎と但馬(右)。

初出「ジャパンREAL VOICE VOL2」(メディアソフト)2017年4月

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