鎮魂と祝福の所在──『すずめの戸締まり』感想


“──「喪失を抱えてなお生きろと、声が聞こえた。(中略)それが人に与えられた呪いだ」
「でもきっと、それは祝福でもあるんだと思う」”(『星を追う子ども』より)


 新海誠監督による長編アニメーション映画『すずめの戸締まり』が「喪失」を描いた映画であることは疑いようがないだろう。川村元気プロデュースの前二作も個人的には同じモチーフだったように思うし、もっと言えばこれまで描いてきた作品はどれもそうだったようにも思うが、今回はそれがかなり直接的に表れていた。
 災害とは当然のことながら大自然による生命の蹂躙であり、災害と喪失を切り離すことは不可能に近い。そしてこの映画は、そうした災害が起きたという事実をこれまた直接的に描くことで、喪失の輪郭をこれまで以上に際立たせていたといえる。
 しかしこの映画における「災害」とは、ルポルタージュ的な客観性を付与されたものではなかった。フィルムに切り取られた災害はどこまでもパーソナルであり、喪失もまたパーソナルだった。
 東日本大震災とは、前代未聞の巨大地震であり、多くの命を奪った大災害であり、そして原子力発電所の事故であった。そしてもちろん、この映画はその事実に言及する。しかしそれは、描かれる都市のディティールほどに克明なものではない。
 汚染土を載せたトラックによって表現される原発事故は、あくまでも背景だった。そして震災ののち、そこに顕れるはずの死体は存在しなかった。
 死体。新海誠はこれまでの作品で、それを頑なに映してこなかった。最もそれに近い描写があったのは『雲の向こう、約束の場所』の終盤だが、それも、撃墜され血飛沫になったパイロットが、肉体なく描かれたのみだった。新海誠ほど、人の死体をフィルムから排除した作家は存在しないだろう。
 だがそれは当然のことだ。この映画は震災の記録映像ではない。この映画はどこまでも岩戸鈴芽の物語なのだ。
 この映画に表れる震災のカットは、どこまでも鈴芽の見た景色だったのだと、僕は考えている。当時4歳だった彼女は政権を民主党が握っていたことも、原発の安全管理のマニュアルが十分に整備されていなかったことも、何一つ分からなかったに違いない。たしかなことはただ一つ、母親が自分の前からいなくなってしまったということだけだ。
 母の喪失。そうした「パーソナルな喪失」によって描き出された震災は彼女のものであり、この映画はそうした彼女の鎮魂によって幕を閉じる。思えば、この映画は常になにものかに祈りを捧げていた。そしてそれは、具体的な神でもなんでもなく、多分、死んでしまった人々、もうそこにはいない人々に対してなのだろう、と、鑑賞者である我々は思いを馳せることができる。

 そうしたパーソナルな震災の表象によって、新海誠は何を描こうとしていたのか。僕はそれは、「祝福の所在」なのだと考える。
 この映画は多くの点で2011年に公開された同監督のアニメーション映画『星を追う子ども』と類似しており、特に、キャラクターの評し方はかなり似通っている。
 『星を〜』の主人公は予告編において「喪失をまだそれと知らぬ少女」と評されていた。一方『すずめの〜』のすずめはと言うと、企画書において「喪失の記憶を忘却した少女」と評されている。
 喪失。ここでもその言葉が登場したが、『星を〜』は、それだけで完結する映画ではなかった。もう一つ、重要なタームが存在する。
 それは「祝福」だ。これはいくつかのキャラクターによって繰り返され、ラストシーンのセリフにも登場する。本稿冒頭で引用したセリフはまさにそれだ。
 祝福。生命への祝福。しかし『星を〜』においてそれは、超越者や、それに類似する死者からのものでしかなかった。
 主人公に祝福をもたらしたのは、死者としてのシュンであり、そして例のセリフの元となった啓示を与えたのもまた、地下世界の神であるヴィータクアだった。
 神秘主義的、民俗学的なファンタジーとして、そうした要素は(使い古されているとはいえ)正しい。ファンタジーとは常に異界の体験であり、啓示は幻想の側からしかもたらされない。
 だが我々は現実の中で生きている。そしてそれは、つくられた世界の登場人物にとってもそうだ。彼らは与えられた、等身大の人生を生きている。だから超越者からの啓示はしょせん、身にしみない他人事にすぎない。
 そういう意味で、『星を〜』は不完全な作品だったといえる。どこかで見たようなファンタジー世界に、やはりどこかで聞いたような神秘主義的なセリフの数々は言ってしまえば退屈なものばかりだ。そのうえ、この映画で最も魅力的で、克明に描かれているのは死者を蘇らせようとする森崎という男で、彼は『ラピュタ』で言えばムスカの立ち位置にいるキャラクターだ。テーマに対するアンチテーゼそのものだ。
 そうした『星を〜』のテーマを、『すずめの〜』は超克する。
 この映画において生命の祝福は、未来の自分から過去の自分にもたらされる。ラストシーン、高校生になったすずめは子どもの、喪失を忘却する前の、幼かった自分に語りかける。喪失を受け入れ生きることは、未来の自分にとってはすでに過去の出来事だ。だがそれは同時に未来でもある。すずめはこのダイアローグを通して、現在の自分に向かっても語りかけている。
 生き続けること。それが呪いだとしても、その呪いの裏側にある祝福への確信によって生きること。その道を、この映画は優しさとともに指し示し、観るものの背中を押す。だがこの物語は、そこでは終わらなかった。

 この映画は「閉じること」を描き続けてきた。そして監督自身もまた、制作発表のインタビューの中でこれが「可能性を閉じていく物語」であることを明確にしている。では一体、この映画は何を閉じたのだろうか。
 僕はそれは「幻想」だったのだと思う。アニメーションという異界。そこにのみ宿る幻想。つかの間の、ささやかな夢としての。
 幻想は幾度となく新海作品に現れ続けたモチーフである。『ほしのこえ』の太陽系外縁惑星アガルタや、『雲の向こう、約束の場所』でサユリが迷い込んだ並行世界、あるいは『秒速5センチメートル』の第二話『コスモナウツ』において貴樹が見ていた夢。『星を追う子ども』は言わずもがなだ。
 新海誠は一貫して、そうした風景が本質的には人間を救わないということを描き続けてきた。彼の作品はそうして、うつくしい風景はあくまでも背景でしかなく、我々は前景としての喪失や断絶と向き合わなければならないのだ、と語る。だが、そうした思弁の中で、「幻想」は次第に居場所を失っていたのではなかったか。
 『君の名は。』、『天気の子』は特にそうだった。そこには断絶を踏み越えんとする物語的欲求が見られ、ここにあっては幻想の出る幕はない。否、それはたしかにそこに表れていたのだが、そこにはもはやかつてのように、ささやかな夢としての実存は宿っていなかった。
 そうした空虚な残骸への「戸締まり」──モノローグとしてこぼれ落ちていく言葉を、物語に繋ぎ止めるささやかな幻想との訣別。それこそが、この映画が最後に志向したことだったのではないだろうか。

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